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1 岡山、大歩危、高知、松山 2 倉敷、松江、秋芳洞、宮島、広島 3 門司、下関、別府、阿蘇、熊本 4 吉野ヶ里、島原、長崎、太宰府 5 新見、鳥取、神戸、大阪、鞍馬 6 幼かった孫たちのための沖縄旅行 |
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1 四国、山陰、山陽 欲張り歩きの旅 (11.4.20~4.26)
M9.0という未曾有の巨大地震が東北の太平洋岸を襲った日からようやく1ヶ月のこの時期に旅に出るのは、全国的に自粛ムードが色濃く漂っていることもあってかなり気持ちが揺れたのは確かです。しかし、別な観点から言えば、年齢的にボランティアなどが無理な私のような人間が元気に歩き回ったとしても、一概に非難されることではないのではとも思います。 この旅のプランは大地震よりだいぶ前に完成し、ホテルや列車の手配も済んでいました。今回は初めて四国を訪れるのが目的でしたが、折角出掛けるので既に以前の記憶が薄れている山陰と山陽も回ることにしたのです。確かに80歳を超えた身での6泊7日はちょっときついですが、例によって心臓と脚は健在なので大丈夫だろうという気持ちでした。ただ、当初予定したサンライズ瀬戸の運行が“無計画停電”などで乱れるとプランが全て狂ってしまうので、どちらにころんでも支障が少なそうな大歩危に宿泊することにしました。 |
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① 岡山、大歩危、かずら橋
後楽園は四国巡りが終わったあとの計画でしたが、天気予報によるとその頃は雨に見舞われそうなので四国に渡る前に寄りました。20年前にはゆっくり見られなかったので今回は十分時間を取りました。 是非渡ってみたい祖谷のかずら橋をバスで訪れる部分がプラン作りで一番のネックでしたが、大歩危峡のホテルに泊まった翌日に峡谷の船下りを済ませたあとかずら橋まで無事に往復し、次の目的地の高知へと向かうことができました。 驚いたのは、かずら橋を渡り終えたときに地元テレビ局のスタッフが待ち構えていて、関東から来たことを知ると「この時期に旅をするのはどういう気持ちからですか?」と明らかにとがめる感じで質問してきたことです。彼らにしてみれば「一方で悲惨な状況にある多くの人々が苦しんでいるのに・・・」ということなのでしょうが、被災者への思いを自粛という形で表すのが最高という思い込みにはかなりの抵抗を感じました。 |
1 電線のない岡山駅前~城下間の桃太郎通り 2 落ち着いたたたずまいの後楽園寒翠細響軒 3 後楽園の遊歩道から、沢の池と砂利島 4 日本三庭園の一つ後楽園、沢の池と唯心山 5 後楽園榮唱橋から、延養亭、能舞台としだれ桜 6 後楽園を取り巻く旭川と岡山城(烏城) 7、8 川下りの観光遊覧船から、特徴ある大歩危峡の礫質片岩の岩壁 9 ラピス大歩危のテラスから見る鯉の吹き流し 10 たもとから見る全長45m、幅2mのかずら橋 11 14m下を祖谷(イヤ)川が流れるスリリングなかずら橋 12 かずら橋から眺める祖谷川の下流方向 |
② 高知
大歩危からの列車が高知に到着する直前に事故で運転打ち切りになり、やむを得ずタクシーでホテルに向かいました。チェックイン後は先ず桂浜に行って夕暮れ近くの桂浜の風景や龍馬像を見てから高知城に登り、その後は本場のカツオづくしを堪能しました。 翌朝は早起きして新旧のはりまや橋とその近辺を走る市電の写真撮影を済ませてから、鯨の肋骨を思わせる珍しい構造の高知駅から中村へと向かいました。 |
13 無人駅大歩危の駅長“こなきじじい”(児啼爺) 14 はりまや橋交差点に設置されたからくり時計 15 龍馬記念館付近から見下ろす桂浜と龍王岬 16 遊歩道わきの坂本龍馬像 17 龍王岬の展望台から見る日暮れ間近の桂浜 18 自由民権運動の旗手、板垣退助の銅像 19 高知城の初代藩主山内一豊の妻と名馬の像 20 二の丸広場から見上げる高知城天守閣 21 国道32号線に架かる御影石造りのはりまや橋(播磨屋橋) 22 はりまや橋を渡る高知市電 23 赤い欄干が目を惹く新はりまや橋 24 鯨の肋骨に似せて地元の杉材を用いて造られた、クジラドームが愛称のJR高知駅の駅舎 |
③ 四万十、伊予大洲、松山
佐田の沈下橋で気になったのは、このような欄干のない構造での転落事故のことです。地元の人々は慣れていても観光客などはどうでしょうか? 松山では日本最古の温泉である道後温泉地区のホテルに泊まり。漱石や子規の活躍を偲ばせる施設や松山城を回りました。松山城をはじめとする主な施設が大街道周辺の狭い地域に集中しているので、半日ちょっとながら中身の濃い散策ができました。坊ちゃん列車はほとんど専用状態で、車掌の制帽を被っての写真撮影など思いがけない経験もできて面白かったです。 |
25 土佐くろしお鉄道中村駅で、満艦飾の2130系宿毛行きディーゼルカー 26 岸辺の緑を鮮明に映す清流四万十川 27 増水時は水中に沈むため、欄干のない沈下橋 28 四万十川の河口に最も近い佐田の沈下橋 29 佐田の沈下橋から見る四万十川の上流方向 30 肱川橋から見る大洲城と大洲市民会館 31 和洋折衷の造りが珍しいおおず赤レンガ館 32 臥龍山荘の茶室不老庵 33 腰板張りの武家屋敷となまこ壁の土蔵が好対照を見せる明治の家並み 34 煉瓦色のカラー舗装が施されたおはなはん通り 35 風格ある木造三層楼、国の重要文化財道後温泉本館 36 夏目漱石や正岡子規も訪れた道後温泉本館の玄関 |
37 道後温泉駅前の広場放生園のシンボル、坊ちゃんとマドンナのカラクリ時計 38 松山市電道後温泉駅前に陳列された坊ちゃん列車 39 正宗寺の境内に復元された正岡子規の生家 40 子規の生家(記念館)前の坊ちゃん列車の客車 41 純フランス様式の建築、松山藩主の子孫久松家の別邸萬翠荘 42 松山城筒井門 43 松山城本丸広場から見下ろす松山市街 44 本丸広場からの大天守と小天守 45 松山城大天守 46 松山一番街ラ・フォーレ前(大街道電停)に停車中の坊ちゃん列車道後温泉行きと後続の市電 47 松山駅ホームで発車を待つ特急しおかぜ22号岡山行きアンパンマン列車 48 伊予西条~新居浜間の車窓から、石鎚山系の山並み |
倉敷のホテルは美観地区のそばにあったのでたいへん便利でした。美術館に多くの時間を割くだけの素養は持ち合わせていないため、江戸情緒豊かなこの町の印象を写真に収めるだけの散策になってしまいました。結局、予定より1時間早く倉敷を出発し、中国山地を縦断して松江に向かったのです。 |
1 海の守護神等を祀る阿智神社 2 鶴形山阿智神社の境内に鎮座する巨石、鶴石 3 一面つたに覆われた倉敷アイビースクウェアの外壁 4 幾つもの文化施設を備えるアイビースクウェアの中庭 5 新緑が目にしみる倉敷川の岸辺 6 高砂橋から見る倉敷川 7 全国各地の玩具や工芸品を扱う日本郷土玩具店 8 倉敷川の川船渡しを楽しむ人々 9 江戸時代の土蔵造り米蔵を利用した倉敷考古館 10 ギリシャ神殿を思わせる大原美術館の正面 11 江戸時代の豪商で美術館の創設者の邸宅、大原邸 12 倉敷駅に進入する伯備線特急やくも9号出雲市行き |
⑤ 松江
車窓から山陰の名山として名高い伯耆大山を眺めながら松江に到着、ホテルにチェックイン後は松江城から歴史地区を回り、有名な宍道湖の夕日を鑑賞できる絶景ポイントまで延々と歩きました。比較的好天に恵まれたのは有り難かったです。 |
13 黒坂付近の車窓から、日野川と宝仏山方面 14 やくも9号の車窓から、山陰の名山伯耆大山 15 松江しんじ湖温泉駅で発車を待つ、映画Railways の脇役一畑電車2100系(元京王電鉄5000系) 16 初代松江藩主(松平直正)を祀る松江神社 17 堀尾吉晴が築いた名城、松江城 18 松江城の望楼式五層六階の堂々たる天守閣 19 元武家屋敷の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居 20 八雲旧居の純和風の庭 21 極度の近視のため特注された小泉八雲の机と椅子 22 塩見縄手の通りに並ぶ松江藩中級武士の屋敷 23 松平治郷(不昧公)の茶室、茅葺き入母屋造りの明々庵 24 さざ波立つ宍道湖に映る松江の名物、沈む日が輝く最後の光芒 |
⑥ 秋芳洞、宮島
翌日は日本海沿いを山陰本線の特急で益田まで行き山口線に乗り換えて山口で下車、その後バスで秋芳洞へと向かいました。車窓から眺める日本海の水の色がとても印象的で、明るく輝く太平洋とは違ってひどく新鮮に感じたものです。 秋芳洞は20年前に訪れたときの記憶がほとんどなく、秋吉台を見るのは初めてでした。その後はバスで新山口に出てから新幹線で最後の宿泊地の広島に向かい、広島駅直結のホテルでゆっくり休みました。 最終日の午前中は宮島の散策です。ここを訪れるのは初めてですが、厳島神社は確かに素晴らしい芸術品だと思います。潮の関係で海上に浮かぶ姿は見られませんでしたが、それでも十分に美しく世界文化遺産に列せられたのも当然です。 |
25 周布付近の山陰線の車窓から、日本海と岩礁 26 秋芳洞の洞窟入口に架けられた橋 27 大規模な石灰華段丘(石灰分が皿状に沈積したもの)の百枚皿 28 天井から滴り落ちる石灰分を含んだ水滴が造り上げた、昔の傘屋の天井を思わせる傘づくし 29 鍾乳石と石筍がつながって天井を支える大黒柱 30 高さ15m幅4mの巨大な石灰華の滝、黄金柱 31 白い石灰岩と緑が織りなす秋吉台の風景 32 秋吉台展望所のモニュメント 33 宮島の随所で見かける鹿 34 ようやく視界に入った宮島の象徴、朱塗りの大鳥居 35 寝殿造りの粋を集めた朱塗りの名社、厳島神社 36 世界文化遺産の看板も誇らしげな厳島神社東回廊 |
37 東回廊から見る御本社祓殿 38 厳島神社の拝殿 39 東回廊から見る大鳥居 40 東回廊から見る鏡の池と豊国神社五重塔 41 厳島神社本殿正面の高舞台 42 厳島神社の能舞台 43 厳島神社西回廊から見る反橋 44 宮島西松原から見る大鳥居と対岸の廿日市 45 西松原の緑に囲まれて鎮座する平清盛を祀る清盛神社 46 多宝塔そばから見る厳島神社と豊国神社 47 多宝塔から見る大鳥居 48 帰途のフェリーから見る広島湾のカキの養殖筏 |
⑦ 広島
広島ではもちろん平和記念公園内にある多くの原爆関係の施設を回ることがメインです。年々戦争をじかに知らない人々が増えていくのは仕方ありませんが、原爆(原子爆弾)がなぜこのように問題にされるのかを正面から見据えるためにも、平和記念資料館はできるだけ多くの若い人々に訪れて欲しいものです。現在ではこのとき落とされた原爆の数千倍の破壊力を持つ水爆(水素爆弾)が地球上に数千発も存在している訳なので、もしテロリストグループが1発でも手に入れたら大変なことになります。それでも水爆を後生大事に抱えていたがるのが戦勝国を筆頭とする愚かな人類という生き物なのです。 今回平和記念公園を訪れて気になったのは、やはり風化が進んでいるのではないかということでした。この貴重な施設の本来の意味が徐々に忘れ去られ単なる観光地の一つになってしまうのは、時の流れのためとはいえ寂しい感じがします。原爆死没者慰霊碑の前で、あるツアーグループが(添乗員も含めて)笑いさざめく姿を見たときはとても悲しくなりました。また、人類の負の遺産の象徴でもある原爆ドームが、周囲に建設された高層ビル群の中に埋没しかけているのも、それが存在することの意味に照らしてみてかなりの違和感がありました。 最後に訪れた縮景園は平和記念公園から広島駅へのルート上にあり、小さいながら前回の印象も良かったのでまた立ち寄ってみました。 |
49 広島駅前停留所の広島市電(旧型車) 50 広島駅前停留所の広島市電(新型車) 51 広島駅前停留所の広島市電(最新型低床車) 52 世界連邦都市宣言20周年を記念する平和の塔 53 母親の愛情を示し、平和の願いを託する嵐の中の母子像 54 原爆による被害の実態を後世まで伝え、核廃絶と世界恒久平和の実現を目指す広島平和記念資料館 55 平和記念資料館の展示、被爆した女学生の制服 56 資料館の展示、焼けただれたヘルメットと三輪車 57 資料館の展示、黒焦げのモンペ 58 資料館の展示、原爆投下当時13歳だった少年が57年後の70歳時に描いた「火の粉混じりの黒い雨」 59 資料館の展示、毎年8/6 の平和記念式典で、広島市長が世界に向けて発信する平和宣言 60 毎年原爆投下の8/6に平和記念式典が行われる場に設けられた原爆死没者慰霊碑 |
61 原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた石室 62 核兵器の廃絶が実現するまで灯され続ける「平和の灯」 63 多くの千羽鶴が捧げられる、原爆の犠牲になった子どもたちの霊を慰める「原爆の子の像」 64 平和を祈り願う誰もが自由に撞ける「平和の鐘」 65 広島に原爆が投下された朝8時15分にメロディを響かせる「平和の時計塔」 66 原爆の投下目標にされた太田川に架かる相生橋 67 人類史上初の原爆投下による惨禍を後世に伝える原爆ドーム(当時の広島県産業奨励館) 68 空洞化が認識できる裏から見る原爆ドーム 69 縮景園、優雅な書院造りの清風館 70 清風館の裏から眺める濯纓池と対岸の積翠巖、古松渓 71 濯纓池と縮景園のシンボル跨虹橋(池を二分する花崗岩製の橋) 72 濯纓池と悠々亭(納涼茶会や歌会などに使われた四阿) |
広島への原爆投下について考える |
そのとき既に15歳になっていた私は、1945年8月6日広島に原爆が投下された翌日の新聞に載った「広島に新型爆弾・・・」の見出しをかすかながら覚えています。原爆という史上最も残虐な爆弾を、軍関係者と軍の施設以外への攻撃を禁止していた戦時国際法に違反することを承知で平然と非戦闘員(一般人)の頭上に落としながら、今なおその正当性を主張しているアメリカ人の無知と傲慢さに対して、心の底から怒りを感じずにはいられません。 戦争末期に全国の都市に対して行われた絨毯(じゅうたん)爆撃も、軍人と一般人を区別することなく殺戮する点では戦時国際法に明らかに違反する残虐な行為です。しかし、普通の爆弾とは全く次元の違う兵器である原爆による攻撃は、瞬時に大人も子どもも数千度の溶鉱炉に放り込むのと変わりない状況を作り出す点で、残虐さの程度が違います。加えて、被爆後の数十年間も多くの人々が放射能に基づく後遺症に苦しみ、遺伝子段階でも何が起こるか分からないという恐怖さえ残してしまう史上最も非人道的な兵器なのです。 更に、アメリカが原爆を同じ白人のドイツではなく黄色人種の住む日本に落としたこと、広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型と2種類の原爆を用いたこと、事前の爆撃を控えて広島と長崎をほぼ無傷のままにしておいたこと、日本占領後すぐ調査団が広島入りして詳細な爆撃の効果判定をしたこと、これらの事実が何を示しているかは明らかです。 そこから容易に読み取れるのは、先ず人種差別意識、それに基づいた原爆の破壊力確認の対象としての日本人のモルモット化、そして最も大きな目的は「戦後の世界で覇権を握るための(当時の)ソ連に対する威嚇」だったことは疑いを挟む余地すらありません。このような理由で稀に見る大虐殺をやってのけながら、いまだに「原爆投下は戦争の早期終結のため不可欠だった」とうそぶき、自らの「人道に対する罪」に目を向けようとしないのが、日頃人権尊重を声高に叫んでいるアメリカの人々なのです。このような独善的な姿勢が戦後もずっと様々な圧力の形で続いていることは、心ある人々なら容易に見抜けることでしょう。 アメリカナイズがすっかり行き渡った今となっては言いにくいことですが、いつの世も「歴史は勝者によって作られる」だけでなく、戦後はアメリカにすり寄る人々の歴史観だけが正しいとされ、真相は闇に葬られています。あの戦争でさえ、全ての罪が日本にあるという考えは決して合理的ではないと思います。勝者が100%正しく敗者は100%悪いなど、私のような理系人間でなくとも論理的に考えればあり得ないことではないでしょうか?このようなことを書くと私が極端な思想の持ち主ではと勘違いする人もいるかも知れませんが、それは全く的外れです。君が代はある理由から絶対歌わず、年号にも大きな疑問があるので極力使わない私は、昨今卑劣な手法で憲法を骨抜きにしようと企んでいる日本会議やそれに支えられている自民党には強烈な反発を感じているのです。「独り言」のページに書かれた内容に、私という人間の本性がはっきり現れているはずです。 |
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2 九州北半駆け足歩きの旅 (12.5.14~5.19)
これは私にとって最初で最後の九州への旅です。旅のプランは全て自力で作り上げるのが私の流儀ですが、今回は特に念入りに細かく作りました。五泊六日の長期間なので、ある程度天気変化の流れが分かってからホテルを予約するつもりでしたが、ネットでの空室チェックで不安な状況になったため、かなり早く予約を済ませる事態に追い込まれました。列車の利用が中心の私には駅近くのホテル、それに今回は長期のためコインランドリー設備のあるホテルが一番で、候補のホテルがふさがってしまうと困るのです。結果的には五泊のうち四泊はJR九州ホテルになりました。 83歳になろうという身での一人旅は以前ならホテルでも敬遠したのですが、最近はそのようなこともなく受け入れてくれます。不況による客離れが原因なのか、それとも高齢者に対する認識が変わったのかは分かりませんが、いずれにしても有り難いことです。 |
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① 門司港、下関、小倉
初めての九州の旅は小倉から始めることになっていましたが、新幹線で到着後の半日を利用して明治の雰囲気が残る門司港駅の周辺を歩き、更に足を延ばして国内では唯一の海底の歩道トンネルをくぐって下関に渡り、平家にまつわるいくつかの施設を訪れてみました。 門司港駅や旧門司税関、国際友好記念図書館などの建物も印象的でしたが、海底を歩いて九州の一角から本州に戻るのはちょっとした冒険のようで、多少わくわくしました。人道トンネルは意外に幅が狭く(6mくらい)ジョギングを楽しむ人々が目立ちました。数百メートル離れているはずの関門橋を走る車の音がまるですぐそばのように聞こえたのは驚きです。水が音波を高速で通すことの表れでしょう。 関門トンネルの人道を抜けると早速義経主従の像のお出迎えです。時折霧雨はあるものの特に支障はなく、お目当ての赤間神宮に向かいました。社殿の作りや印象が厳島神社によく似ているのは、やはり平家による造営だからでしょう。幼い安徳帝が壇ノ浦で二の尼に抱かれて入水した模様は歴史に疎い私でもよく覚えています。 小倉城は50年程前に再建されたもので、現在はハイテク化されているそうです。庭園が有名ですが、実際に訪れてみると季節の関係もあって特に目立つものはありませんでした。松本清張記念館には清張の著作がぎっしりと展示されていて、清張が大好きな私には何よりの贈り物でした。彼が書いた作品は決して単なる興味本位の推理小説ではなく、政界や財界、経済界などの暗部を鋭くえぐり出すものであり、その後の作家たちの模範となるものだったと思います。 |
1 鹿児島本線の起点、門司港駅の0kmポスト 2 門司港駅切符売り場の古めかしい案内板 3 ブルーウィング門司から、レンガ造りの旧門司税関 4 門司港レトロ展望室から見る、門司港駅、旧門司三井倶楽部、門司港ホテル方面 5 国内最大の歩行者専用の跳ね橋、ブルーウィング門司 6 関門トンネル人道入口付近から見上げる関門橋 7 全長780mの国内唯一の海底人道トンネル 8 関門トンネル人道の下関側入口 9 みもすそ川公園に立つ源義経八艘飛びの像 10 関門橋と義経の従者武蔵坊弁慶の像 11 四国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)連合艦隊との戦争(馬関戦争)で用いられた砲台 12 8歳の安徳帝を抱いて壇ノ浦で入水した平清盛の正室時子(二位の尼)の辞世を記した碑 |
13 関門橋の直下から見る門司方面 14 壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀る赤間神宮 15 赤間神宮拝殿の右端から見る奥拝殿と廻廊 16 赤間神宮境内に建立された平家一門の墓、七盛塚 17 平家ゆかりの琵琶法師耳なし芳一を祀る芳一堂 18 幼くして入水した安徳帝を慰めるため、竜宮城の形に造られた水天門 19 日清講和条約締結の場であった旧春帆楼(現日清講和条約記念館) 20 記念館のそばに立てられた日清講和条約の全権大使だった伊藤博文と陸奥宗光の胸像 21 小倉城北口への橋から見るお堀と噴水 22 小倉城庭園の一景 23 小倉城の天守閣 24 社会派の文豪松本清張の業績を讃えるために造られた松本清張記念館 |
② 別府、豊後竹田
別府と言えば大多数の人々は先ず温泉を思い浮かべるでしょうが、その後の日程の関係で地獄巡りだけを予定していました。八つの地獄はそれぞれ特徴があり、時折の霧雨にもかかわらず結構楽しめました。団体旅行が多かったですがまあ何とか我慢しました。龍巻と血の池の二つの地獄が少し離れた場所にあり、ほかの地獄がまとまっている鉄輪(カンナワ)との間の連絡バスをうまく利用できて良かったです。 行動上の都合で豊後竹田に宿を取りました。竹田に着く頃に天候も回復したのは何よりも有り難かったです。正真正銘の山城である岡城跡に登るにはかなりのエネルギーを要し、写真41,42のような急坂がこれでもかこれでもかと続き、さすがの私でも息切れがしたくらいです。でも、頂上の展望台で滝廉太郎の銅像に出会い、くじゅう連山も眺められたのは嬉しいことでした。それにしても、これほど険しい場所に造られた岡城は恐らく難攻不落だったでしょうし、今このように荒れ果てた文字通りの「荒城」になっていることを思えば感慨深いものがあります。 |
25 地獄巡り、熱泥が沸騰する鬼石坊主地獄 26 鶴見岳の爆発でできた海地獄の神秘的なブルー 27 温泉熱を利用した熱帯性スイレンが咲く池 28 温泉熱90°の山地獄 29 至る所から噴気が上がる山地獄 30 温泉熱で飼育されているフラミンゴ 31 泉熱85°の幻想的で妖怪でも現れそうなかまど地獄三丁目 32 泉熱80°の泥の地獄、かまど地獄四丁目 33 泉熱95°の色が変化するかまど地獄五丁目 34 真っ赤な熱泥のかまど地獄六丁目 35 泉熱95°、噴出時は無色透明だが空気に触れると青白色に変化する白池地獄 36 天井がなければ30mの高さに達する間欠泉、龍巻地獄 |
37 泉熱78°、真っ赤な粘土が煮えたぎる血の池地獄 38 噴気までが赤い血の池地獄 39 豊肥本線緒方付近で現れた晴れ間 40 典型的な山城、岡城跡への入口 41 岡城跡への登り口、まだ序の口の坂道 42 大手門跡直下の息も切れる急坂 43 二の丸跡の展望台から望むくじゅう連山 44 二の丸跡に立つ滝廉太郎の銅像 45 岡城本丸跡 46 隠れキリシタンの洞窟礼拝堂跡 47 中を通ると“荒城の月”など3曲のメロディが流れる滝廉太郎トンネル 48 現在は記念館になっている滝廉太郎の旧宅 |
③ 阿蘇
山好きの私にとってこの旅の最大の楽しみはこの阿蘇でした。実は阿蘇駅に到着した時点では火山ガスで入山禁止という状況だったのです。ところが、バスがロープウェイ駅に着く頃には風向きが変わって解除になりました。中々まともには見ることができないという中岳の火口を飽きるほどのぞき見ることができた訳で、正についているとしか言いようがありません。 火口湖は見事なエメラルドグリーンで草津白根にある湯釜の毒々しい色とは対照的ですが、有毒ガスを含む噴煙が風向きによっては人々を大きな危険に巻き込むことを考えれば、やはり油断は禁物の大自然の営みなのです。だからこそ、そのような状況になった場合は全ての観光客を下山させることになっています。 九州という場所のせいか中国や韓国の観光客が多く、20年前の日本人と同様の身勝手な振る舞いにだいぶ悩まされました。 バスで移動して草千里に立つと阿蘇カルデラの広大さがよく分かります。ここからは外輪山は全く見えませんが、遙か昔に巨大噴火が続いたこの地域に今では多くの人々が住んでいることを考えると、天文学や地質学、考古学などと私たちとのタイムスケールの余りにも大きな差が思い起こされます。 阿蘇駅に戻って熊本まで2両編成の九州横断特急に乗りましたが、皮肉なことに指定席車両は中国や韓国の観光客で満員になり、私が乗った自由席車両がガラガラだったのには、思わず笑ってしまいました。ホームで彼らに出会ったときは立ち通しの1時間半を覚悟していましたから。 |
49 阿蘇山西へのバスの車窓から、阿蘇の最新の噴火口だった米塚 50 黒い溶岩が広がる阿蘇中岳(1506m)の山腹 51 凹地に7つの火口が並ぶ活火山中岳から噴き上がる噴煙 52 阿蘇五岳のうち唯一活動中の中岳の噴煙 53 噴煙の合間に見える中岳のコバルトブルーの火口湖 54 噴煙を通して見え隠れする中岳の火口壁 55 有毒ガスが発生すると風向きによって入山禁止になる中岳の噴煙 56 非常の場合に火山弾などから身を守るための頑丈なシェルター 57 シェルターが幾つも並ぶ中岳の火口周辺 58 草千里展望所から見る中岳の噴煙 59 草千里展望所から、阿蘇五岳の一つ、杵島岳 60 草千里展望所から、時には消えてしまう草千里ヶ浜の池 61 渇水時には消える草千里の池と遙かな中岳 62 草千里で乗馬を楽しむ人々 63 草千里のバス停から、広大な草千里ヶ浜と遠い中岳 64 草千里の乗馬体験施設 65 豊肥本線阿蘇駅のホーム 66 阿蘇駅に到着した九州横断特急3号熊本行き |
④ 熊本
ホテルにチェックイン後、熊本城に向かいました。下の写真のように見事なお城で、加藤清正の築城術の素晴らしさが私のような歴史オンチ、建築オンチにもよく分かります。天守閣も飯田丸五階櫓も、堂々としているばかりでなく均整のとれた美しい建築物になっています。意外なことに、肝心の加藤清正を祀る加藤神社は城内ではなくちょっと離れた場所に建てられていました。神社側の話では戦災を避けるために移されたそうです。 熊本城ですっかり時間を費やしてしまい、もう一つの目的地だった水前寺成趣園はキャンセルすることにしました。一応近くまで市電で行ってみたのですが、構造上外からは見えずそのまま帰りました。それでも私にとっては決して無駄足ではなく、市電に乗ること自体が一つの目的だったのです。また、市電の車内で地元の人とおしゃべりしたときも話題が東北の大地震のことになり、地震、台風、津波がこの災害列島に住む私たちの共通語になっていることを今更ながら認識させられました。 この4年後に熊本と周辺地域で活断層由来の強い地震が続き、多くの家屋が倒壊して人々が恐怖の日々を送ることになってしまいました。市民の誇りである熊本のシンボル熊本城も大きな損害を受け、最近になってようやく元の姿に近づいてきたようです。 |
67 JR熊本駅 68 行幸橋のたもとに立つ戦国時代の名将、加藤清正の銅像 69 熊本城の南西側の入口、櫨方(ハゼカタ)門 70 熊本城の南面防御の要、飯田丸五階櫓 71 石積みの方法の違いで傾斜が変わる二様の石垣 72 裏側から見る飯田丸五階櫓 73 本丸御殿大広間下から見る天守閣 74 敵の進軍を阻むため登りにくくしてある石段 75 本丸広場にそそり立つ優雅で堂々とした日本三名城の一つ、熊本城の天守閣 76 西側正面から見る熊本城の大天守と小天守 77 怪力の若者の伝説が残る五郎の首掛け石 78 東側から見る夕日を背にした熊本城天守閣 79 城としては異例の地下通路、闇り(クラガリ)通路 80 加藤清正が自ら植えた本丸御殿前の大イチョウ 81 小西行長との関連で三の天守とも呼ばれる宇土櫓 82 熊本城の鬼門である北東隅にある不開門 83 加藤神社の鳥居 84 熊本城の築城など熊本の基礎を築いた加藤清正を祀る加藤神社(戦災を避けて城から移転した) |
前年に訪れた青森の三内丸山遺跡は縄文時代の遺跡だったので、これとの比較をしてみたいこともあって吉野ヶ里遺跡をプランに加えてありました。縄文人の素朴な暮らしぶりとはかなり違うことが目につきました。住まいもさることながら、ムラなどの構成、生活物資の貯蔵管理など、どれをとっても大陸の進んだ文化の影響を受けた形跡が色濃く感じられました。 長崎には夕方までに着けばよいとの考えから、島原への立ち寄りを加えてありました。島原鉄道、島原城、それに雲仙普賢岳が主な関心でしたが、残念ながら普賢岳はチラッと見えただけでした。観光施設としての役目も負っているとは言え、復元された島原城の美麗さと偉容には圧倒されるものがあります。列車からは今なお問題を抱えている有明海も見ることができました。 |
1 弥生時代の貴重な資料を集めた吉野ヶ里歴史公園 2 集落や施設を守るため周辺に設けられた環濠 3 兵士が侵入者の有無を見張る物見櫓 4 至近に物見櫓がある、王とその妻、娘夫婦の住居 5 王や支配階級による協議や会合が行われた集会の館 6 絹糸を取り出す養蚕が行われていた中のムラの養蚕の家 7 特別な行事のための酒を造っていた酒造りの家 8 複雑に入り組んだ北内郭の通路 9 吉野ヶ里のクニ全体に関わる重要事項を決める会議や、祖先への祈り、祭りの際の中心施設だった主祭殿 10 北内郭の竪穴住居の内部 11 甕棺で土葬された当時の模様の再現(甕棺墓列) 12 重要物資を貯蔵した倉庫群 |
13 吉野ヶ里、倉庫を守る兵士たちの住まい 14 諫早駅ホームの島原鉄道キハ2500系ディーゼルカー 15 キハ2500系の側面に描かれた島原の子守唄のイラスト 16 大三東駅付近の車窓から見る有明海 17 鯉の泳ぐ水の町の一風景 18 島原城の西側の入口から見る西の櫓 19 安土桃山様式の壮麗なたたずまいの島原城天守閣 20 北側から見る島原城の天守閣 21 島原藩の下級武士の旧宅 22 島原藩主が領民に時を知らせるために造った、復元された時鐘楼 23 島原城の大手門をモチーフとした島原駅 24 島原駅の正面に立つ島原の子守唄の母子像 |
⑥ 長崎(浦上地区)
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長崎に着いた夜は、稲佐山に登って素晴らしい夜景を眺めるつもりでした。ところが、ロープウェイの乗り場に着いてみてビックリ!長~い行列ができていたのです。やっと順番がきてゴンドラを見るとその小さいこと、これでは待ち時間が長くなるのも当然です。結局頂上に着いたときは帰りの指定されたバスに間に合う下りロープウェイの発車まで15分しかなく、とても展望台まで登る時間はありませんでした。 翌18日は、快晴の下先ず原爆の爆心地であった浦上地区に出掛けました。町の至る所に犠牲者を弔い世界の恒久平和を求める施設や像、碑などが見られ、広島の場合と同じく人々の思いの強さを感じさせられます。 戦争の悲惨さを実際に体験した人が年々いなくなっていく現在、その実態や平和の大切さをどうやって若者に伝えたらよいのか非常に難しいことだと思います。核家族社会のため家庭でそのような話題が登場する機会はなく、学校でも教える側が全く戦争を知らず、生まれながらにして豊かな日常を享受した世代が中心になってしまいました。一応の知識はあっても、体験していないのではやはり心に訴える力は弱いことは否めません。 それに加えて、原爆投下の日も敗戦の日もともに夏休み中であるため、若者だけでなく社会全体の関心がそのような(どちらかというと暗く悲しい)事柄よりも他の華やかな出来事、例えば高校野球などに向いてしまい勝ちだと思います。こうして、色々な事件や災害と同じく最も重要な事実までもが風化していくのは、ただ悲しいばかりでなく怖ろしいことだと痛感します。 |
25 長崎本線のターミナル長崎駅の車両止め 26 長崎駅のホームに鎮座する御朱印船の模型 27 JR九州ホテル長崎の窓から、早朝の長崎港 28 JR九州ホテル長崎の窓から、早朝の稲佐山 29 JR九州ホテル長崎の窓から、早朝の浦上川 30 駅前の横断橋から見る朝の長崎駅 31 弾圧で処刑された日本人のキリスト教信者たちを悼む、日本二十六聖人殉教の碑 32 平和会館前に立つ原爆殉難教え子と教師の碑 33 長崎原爆資料館の入口 34 原爆資料館の展示、破壊し尽くされた町 35 核戦争の惨禍が再び繰り返されないことを願う平和の母子像 36 原爆犠牲者の慰霊と不戦平和、世界平和の希求を目指す不戦平和の塔 |
37 21世紀に羽ばたく日本の未来を願い、偉大な母の慈悲心と傷心の子どもを表す祈りの像 38 原爆投下中心地、黒御影石の原爆投下中心碑 39 水を求める原爆犠牲者に豊かな水を与える平和の泉 40 チェコから贈られた人生の喜びを表すモニュメント 41 長崎の町が戦火からの復興を果たしたことを祝って建立された戦災復興祈念の子どもの像 42 被爆者の冥福を祈り世界の恒久平和を願って建立された平和祈念像 43 恒久平和の確立を世界の人々に訴えるために建立された長崎の鐘 44 再建された浦上天主堂の正面入口 45 原爆の爆風と熱線で無残に破壊された浦上教会の石像 46 原爆の後遺症に悩まされながら平和のための著作や活動に一身を捧げた永井隆博士の記念館 47 永井隆博士の直筆になる書「如天愛人」 48 永井隆博士の直筆になる被災直後の浦上教会 |
⑦ 長崎(諏訪神社~グラバー園)
浦上地区を歩き回ってからすし詰めの市電で諏訪神社に向かいました。大鳥居から社殿までの長い石段は見上げるだけでも大抵の人はため息をつくでしょう。途中で見かける現地の老人たちの買い物姿からは、当然日常の苦労が偲ばれます。バイクも通れない階段だらけの場所が多い長崎の人々が、どうやって生活物資を手に入れているのかがとても気になりました。諏訪神社の社殿は壮大なもので、伝統の長崎くんちの賑わいがいかばかりかと想像するだけでも楽しくなります。 この日は気温がかなり上がり、シーボルトの旧宅までは相当の距離があって辛い思いを強いられました。帰りは川面にくっきりとメガネ形に映る眼鏡橋を見たあと予定してあったグラバー園近くのレストランを探したのですが、一向に見当たりません。ネットの情報もきちんと更新されなくては無意味です。何とか近辺の食堂で昼食を済ませ、斜行エレベーターを経て第一ゲートからグラバー園に入りました。 ピンカートンの帰りをひたすら待って「ある晴れた日に・・・」と歌った蝶々さんの悲劇を題材にしたオペラは余りにも有名ですが、その舞台となったグラバー邸の一帯からは長崎港が間近に見渡せます。園内にはそれぞれ由緒のある建物が建ち並び、鎖国時代に唯一外国との交易がされていた長崎ならではの異国情緒を味わうことができます。この日の暑さは名物のカステラアイスで凌ぎ、次の目的地の東山手に向かいました。 |
49 延々と石段が続く諏訪神社の参道 50 長い石段の上に現れた諏訪神社の大門(神門) 51 日本三大祭りの一つである「くんち」の伝統を持つ1625年創建の壮大な神社、諏訪神社 52 諏訪神社の境内でいななく神馬 53 日差しがまぶしいシーボルト通り 54 多くの蘭方医を育てたドイツ人シーボルトの胸像 55 レンガ造りのどっしりしたシーボルト記念館 56 新中川町電停の長崎市電 57 中島川に架かる古代ローマの技術も加味された眼鏡橋 58 グラバーの弟が住んでいた南山手レストハウス 59 南山手レストハウス付近から起伏に富む長崎の町 60 南山手レストハウス付近から見る斜行エレベーター、グラバースカイロード |
61 日本最古の木造ゴシック様式の教会、大浦天主堂 62 大浦天主堂の内部 63 大浦天主堂のステンドグラス 64 外国船乗組員の宿泊所だった旧三井第二ドックハウス 65 旧三井第二ドックハウスのベランダから見る長崎港方面 66 キリシタン迫害による隠れキリシタンの苦悩と救いを象徴する祈りの泉 67 旧リンガー邸前から見る長崎港 68 旧リンガー邸の室内 69 世界三大オペラの一つ「蝶々夫人」を演じた世界的名歌手三浦環の像 70 オペラ「蝶々夫人」の作曲者プッチーニの立像 71 日本最初の西洋料理レストランだった旧自由亭 72 日本最古の木造西洋風建築、旧グラバー邸 |
73 北側から見る旧グラバー邸 74 旧グラバー邸前から望む長崎市街 75 スコットランドから来日し、数々の面で日本の近代化に貢献したトーマス・グラバーの胸像 76 旧グラバー邸の下に造られた日本庭園 77、78 長崎伝統芸能館の展示、「長崎くんち」で用いられる曳舟 |
⑧ 長崎(東山手~出島)
グラバー園を出て先ず目指したのは、中国人が建てた海外で唯一の廟である孔子廟です。今は日本はおろか本家本元の中国でもすっかり忘れられた孔子の教え、人が生きるための根本である「仁義礼智信」が門内に掲げられ、中庭には72人の賢人の等身大石像が立ち並び、東洋哲学の館としての威厳が備わっているように感じました。 ここからかなり急な石畳のオランダ坂を上がると、洋風の住宅が数多く見られます。その後は幾分平坦になりますが、新地中華街に下るあたりは急な石段と坂道が連続するので、足腰の弱い人ではとても無理だと思います。新地は横浜中華街と比べればかなり小さく感じました。 新地からはかつてオランダ商館が建ち並んでいた出島に向かいましたが、さすがの私も暑さの中を長時間歩いたため疲れが溜まり、ミニチュアの出島以外はじっくり見る気力もなく、ホテルに戻って宅配便の準備を済ませ早めに床につきました。 |
79 中国の賢人孔子を祀る長崎孔子廟の入退場門 80 儀門(正門)の前に並ぶ狛犬(福建石獅) 81 大成殿(正殿)前に並ぶ72賢人の等身大の石像 82 長崎を象徴する美しい石畳の坂道、オランダ坂 83 オランダ坂に沿って並ぶ東山手の洋風住宅群 84 狭い階段と急坂が連続する新地中華街への道 85 新地中華街の南門 86 新地中華街の東門 87 1820年頃の出島を再現した模型(実際の出島の1/15) 88 陳列されている鉄製大砲 89 石造の日時計 90 復元された二番蔵と三番蔵 |
⑨ 太宰府
五泊が限度なので博多に泊まる訳にはいかず、太宰府だけ訪れてから新幹線で帰ることにしてありました。太宰府では政庁跡と五条近辺の社寺を先に見ることにしましたが、政庁跡には巨大な礎石が散らばるだけで、ここに九州一円を治める重要な政治の中心があったなど想像すらできませんでした。社寺の方はどれもいかにも古く歴史を感じさせるものでした。 その後はお決まりの天満宮詣でです。参道を歩く人々が多くお土産店も両側にびっしり並んで、まるで浅草寺を思わせる光景でした。 |
1 西鉄電車五条駅 2 九州随一の仏教彫刻の宝庫、観世音寺の講堂(本堂) 3 入母屋造り瓦葺きの簡素な観世音寺金堂 4 鑑真和上によって開かれた戒壇院の山門 5 出家者に戒律を授ける戒壇院の本堂 6 太宰府の長官だった大友旅人の歌碑 7 広大でのどかな太宰府政庁跡(都府楼跡) 8 太宰府政庁正殿跡のモニュメントの礎石 9 太宰府政庁跡に点在する巨大な礎石 10 太宰府駅前から太宰府天満宮への参道 11 天満宮への参道の半ばに立つ鳥居 12 第一の太鼓橋 13 第一の太鼓橋に続く平橋 14 第二の太鼓橋から見る心字池 15 楼門前の鳥居 16 菅原道真を祀る太宰府天満宮の華麗な造りの楼門 17 小早川隆景が寄進した豪奢な造りの太宰府天満宮本殿 18 太宰府天満宮本殿前のおみくじ結び所 |
このように幸いに天候に恵まれ、特にメインの阿蘇と長崎は快晴でした。その代わり見事に日焼けし、帰ってから10日後に谷川岳の周辺を歩き回ったときの日焼けと重なって、腕時計の跡がまるで江戸時代の島帰りの罪人のような模様になってしまいました。 一人旅の良さはワイワイガヤガヤの好きな人には分からないと思いますが、五感で感じるものを独り占めできる点にあります。素晴らしいものに接したときの感動を自分自身の心に封じ込めることによってそれは大きく成長し、快い余韻がその後も長く残ります。仲間と一緒に喜び合うのが最高と思う人が多いのも分かりますが、そうではない変わり者も少数ながらいるのです。喜びや感動は口に出した途端に薄まってしまう場合もあると思うのです。そのとき発せられた言葉による表現で感動の内容や水準が縛られてしまうからです。たまに聞くことのある「言葉では表せない・・・」場面も間違いなくあるのです。更に言えば、ある現象についての感じ方が複数の人の間で完全に一致することは考えられず、それに近い友人を得るのは砂丘で小さなダイヤを探すようなものであることも確かではないでしょうか? ところで、昨年の四国、中国の旅でも感じたことですが、市電が主要交通機関として残されている町を見ると羨ましくてなりません。岡山、高知、松山、広島、それに今回の熊本、長崎、どの町でも老若男女が盛んに利用しています。東京というブクブクと太り過ぎて着飾った“田舎”では、車の通行に邪魔だという理由でかつては四通八達していた便利で安全な市電をほぼ完全に撤去してしまいました。現在では博物館役の荒川線が残っているだけです。このことは、ヨーロッパ各国が路面電車を大切にしているのとはまるで逆の発想に基づく暴挙だと思います。面積あたりの車密度から見れば図抜けて世界に冠たる車社会になってしまった今では、もう「公共交通の衰退→車への依存→さらなる公共交通の衰退」という悪循環システムが確立してしまったので歯車は戻せませんが、本当に残念なことです。五官の衰えていく高齢者が危険を冒して車に乗れば事故が増えるのは当たり前なのに、国土交通省も警察もそうした結果だけを問題にして原因の根本的な解決に取り組もうとはしません。こうして、運転する人は便利さと安楽の代償に身体能力、特に足腰の強さを失い、運転者以外の人々は四六時中モラルを欠いた無謀ドライバーによる事故の危険に怯えて日々を送ることになっているのです。自動運転システムが全面的に信頼できるものになるとはとても思えません。 |
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3 西日本、出会いと再発見の旅 (13.5.14~5.18)
千葉~東京~徳山~笠戸島~徳山~岡山~新見~井倉洞~新見グランドホテルみよしや~新見~米子~鳥取~鳥取砂丘 ~鳥取グリーンホテル~鳥取~上郡~三宮~舞子~舞子公園~明石海峡大橋プロムナード~舞子~元町 ~東遊園地・慰霊と復興のモニュメント~フラワーロード~阪急三宮~阪急六甲~六甲ケーブル下~六甲山上~六甲ケーブル下 ~阪急六甲~阪急三宮~新神戸~ANAクラウンプラザホテル神戸~北野異人館街(ベンの家、仏蘭西館、旧パナマ領事館、萌黄の館 風見鶏の館、ウイーンオーストリアの家、うろこの家、山手八番館、北野外国人倶楽部)~新神戸~三宮~摩耶ケーブル下~虹の駅 ~星の駅~摩耶山展望台~摩耶ケーブル下~三ノ宮~大阪~京橋~ホテルモントレ・ラ・スール大阪~大阪城公園(修道館、天守閣 六番櫓)~京橋~大阪~京都~今出川~出町柳~鞍馬~鞍馬寺~由岐神社~霊宝殿~僧正ヶ谷不動堂~奥の院魔王殿~西門 ~貴船神社本宮~貴船神社結社~貴船神社奥宮~貴船口~出町柳~今出川~京都~東京~千葉 |
① 新見~鳥取~舞子
徳山の知人に会ったあとの帰りがけに、いくつかの場所に寄った記録です。 井倉洞は有名な秋芳洞と比べれば規模は小さい鍾乳洞ですが、通路が狭く高低差が大きいので結構迫力が感じられます。この日は係員以外誰もいない早朝真っ先に入ったので、丸々40分間は暗い洞内を一人っきりで上り下りするスリリングな体験になりました。 伯耆大山はまたまた霞がかってよく見えず、私には鳥取砂丘も特に驚くような規模とは感じられませんでした。鳥取から神戸までの最短経路が智頭急行線経由で、山陰本線と福知山線経由の半分しか時間がかからなかったのは、その後の行動プランの内容を充実させるのにたいへん役立ちました。 一旦立ち寄った三宮から舞い戻り、一度は見たいと思っていた明石海峡大橋を海上プロムナードで見学したあと、神戸に帰ってからの時間もたっぷり残り、ゆとりを持って予定をこなすことができました。 |
1 朝の伯備線新見駅 2 井倉洞の高さ200mの絶壁と細く流れ落ちる滝 3 全長1200m、高低差90mの井倉洞の入口 4 狭く天井が低い井倉洞の探勝路 5 鍾乳石の造形、滝のようになった「銀すだれ」 6 白く大きな「鬼の手袋」 7 2本の石筍が通り抜けを妨げる「とおせんぼ」 8 探勝ルートの終わりに近い「見返りの池」 9 一気に下る出口への急な坂道、途中の広場 10 虹を思わせる五色の壁画 11 米子到着の近い車窓から見る伯耆大山 12 米子駅に到着した特急やくも7号 |
13 とっとりライナーの側面に描かれた「まんが王国とっとり」のイラスト 14 展望台から見る鳥取砂丘 15 鳥取砂丘の起伏に富んだ斜面と日本海 16 馬の背と長尾鼻方面 17 鳥取駅構内に飾られたしゃんしゃん傘踊り用の華やかな傘 18 鳥取駅ホームの智頭急行線経由特パーはくと4号京都行き 19 舞子デッキから見る明石海峡大橋 20 全長3911m、世界一の吊り橋明石海峡大橋と、その先に霞む淡路島 21 海上プロムナードから、明石海峡大橋の骨組み 22 プロムナードから、孫文記念館と明石の浜方面 23 プロムナードに設けられたガラスの観察窓 24 プロムナードから、明石海峡大橋下の水面 |
② 神戸
明石からとんぼ返りで元町で下車して阪神・淡路大震災の慰霊の場を訪ねたあと六甲山に登りましたが、今回の神戸では北野の異人館巡りが主目的だったので、六甲からの夜景を見るのは諦めてホテルに帰りました。 前回は10年以上前で記憶も薄れ写真もほとんど残っていない異人館街は、私には少々気温が高すぎたものの天候にも恵まれ、ゆっくりと回ることができました。早出のため観光客が少ないのは有り難く、かなり観光地化してはいるものの横浜山手とはまた違った雰囲気をたっぷり味わうことができました。有名な風見鶏の館や萌黄の館も魅力的ですが、「うろこの家」の独特な景観からは特別強い印象を受けました。このあと、摩耶山に登ってから知人との会食を予定している大阪に向かいました。 |
25 95.1.17の阪神・淡路大震災の慰霊と復興を願う「1.17 希望の灯り」 ※ 「希望の灯り」メッセージの内容…(大震災で失われたのは)命、仕事、団欒、町並み、思い出 26 「希望の灯り」に記されたメッセージ 27 フラワーロード、日本で最初に設置された花時計 28 六甲山への玄関口、六甲ケーブル下駅 29 天覧台から望む摩耶山方面 30 1902年建造の狩猟家ベン・アリソン邸 31 「ベンの家」の一室、狩りの獲物の陳列 32 1904年建築、木造の二軒が左右対称の当時の外国人向けアパート、「洋館長屋」(仏蘭西館) 33 洋館長屋の一室、食堂 34 英国館の一室、バーカウンター 35 庭園側から見る英国館 36 英国館の一室、食堂 37 1898年建築の木造の「神戸北野美術館」 38 1915年建築の旧ドレウェル邸「ラインの館」 39 元貿易商の邸宅、「異人館パラスティン邸」 40 1903年建築のアメリカ総領事の旧邸「萌黄の館」の一室、居間 or 書斎 41 萌黄の館の一室、応接室 42 萌黄の館、窓で囲まれた開放的なベランダ |
43 1909年建築の旧ドイツ人貿易商邸、「風見鶏の館」 44 北野唯一のレンガ外壁のネオゴシック建築、風見鶏の館 45 風見鶏の館の一室、応接間 46 風見鶏の館の魔除けとして、尖塔の上に取り付けられたいる風見鶏(本来の役割は風向きを知ること) 47 神戸北野天満神社 48 ウイーン・オーストリアの家の一室、モーツァルト愛用のピアノの複製 49 「デンマーク館」の一室、人魚姫(マーメイド)の像 50 1918年建築の元オランダ総領事館「オランダ館」、「香りの家」の別名も 51 1905年に外国人向けの高級借家として建築された「うろこの家」 52 天然石のスレートの外壁が魚のうろこのように見えることから名付けられた「うろこの家」 53 明治後期建築の旧サンセン邸、「山手八番館」の入口を守る龍燈鬼像 54 山手八番館の一室、東洋風の室内 55 山手八番館の一室、仏像 56 「北野外国人倶楽部」入口の馬車模型(1890年頃ノルマンディの荘園領主が乗っていた) 57 北野外国人倶楽部の一室に集められた様々な道具 58 「坂の上の異人館」(旧中国領事館)の入口を守る大亀 59 坂の上の異人館、東洋の香りを感じる一室 60 坂の上の異人館、座卓のある応接間 |
61 摩耶ケーブル下駅 62 摩耶ロープウェイ、虹の駅 63 摩耶ロープウェイ、星の駅ホームのゴンドラ 64 摩耶山山頂の展望台、掬星台 65 掬星台から見る神戸市東部の市街 66 摩耶ロープウェイ、星の駅 |
③ 大阪(大阪城公園)
翌日は宿泊したホテルのそばの大阪城公園をぶらつきました。大阪夏の陣の屏風絵を元に大阪市民の寄付で再建されたそうですが、やはり大阪のシンボルの一つだと思います。西の丸公園の工事に遮られちょっと予定が狂いましたが、梅田での別の知人との会食には十分間に合いました。 |
1 大阪城桜門 2 大阪市民からの寄付金で復元された大阪城天守閣と公園の緑 3 大阪城公園の広場から見る天守閣 4 六番櫓 5 大手門 6 大手門前から見る千貫櫓 7 大手門前から見る西外堀 8 南西側から見る天守閣 9 極楽橋たもとの刻印石広場 10 大阪城の北の入口、極楽橋 11 極楽橋付近から見る天守閣 12 青屋門付近から見る北外堀 |
④ 京都(鞍馬~貴船)
午後早く帰るのはあまりにも勿体ないので、ついでに京都に行き鞍馬から貴船に抜けるハイキングを予定していました。十数年前に逆コースで歩いたときの記憶は全くなく新鮮な感じでしたが、貴船に降りてからが大変でした。「折角貴船に来たのだから是非奥宮まで行こう」と欲張ったせいで、バスの発車までの時間が僅かになり、半ば走るようにしてようやく間に合いました。84歳の身にはさすがにきつかったです。何しろバス停にたどり着いた時は発車の1分前だったので、正に滑り込みです。 |
13 鞍馬駅に到着した叡山電車 14 鞍馬駅の待合室 15 鞍馬寺参道の石段 16 参道そばにたたずむ魔王の碑 ※ 鞍馬寺では、650年前に金星から飛来した魔王を今も祀っている 17 鞍馬の火祭の起源を持つ由岐神社の仁王門 18 仁王門から本殿までの長く傾斜のきつい石段 19 石段わきの神木 20 由岐神社の本殿 21 由岐神社裏門そばの楓の古木 22 枕草子にも登場するつづら折りの長い本殿への参道 23 鞍馬寺の本殿金堂 24 奥の院の入口 |
25 牛若丸がのどの乾きをうるおした「牛若丸息継ぎの水」 26 牛若丸が奥州へ下るとき、名残を惜しんだという「義経公背比べの石」 27 僧正ヶ谷不動堂 28 源義経を魔王尊の脇侍の遮那王尊として祀る「義経堂」 29 岩盤が固く地下に根を張れない杉の根が模様を描く「木の根道」 30 鞍馬寺奥の院、魔王殿 31 魔王殿から貴船側への急傾斜の下り 32 貴船側からの参拝口、貴船川に架かる西門の橋 33 水の神を祀る貴船神社の本宮 34 貴船神社本宮の神馬 35 和泉式部が歌を詠んだことでも知られる、縁結びの神を祀る貴船神社の結社 36 貴船神社奥宮 |
この旅の主目的は三つありました。徳山と大阪での知人との会食は“先のない”私にとっては「最後の晩餐(or ランチ)」だったのです。徳山の知人はまだ働き盛りで地域活動に情熱を燃やしていました。また、大阪の知人は84年に北欧を旅したときの仲間です。特に京都行きの直前に大阪駅ビルで会食した知人は一家揃って会いにきてくれ、当時12歳だったかわいい坊やが現代風でない落ち着いた立派な青年に成長していて、月日の過ぎる早さを改めて思い知らされました。 二番目の目的だった北野異人館巡りには3時間かけました。六甲と摩耶に登ったのは、山好きの私が愛読する新田次郎の小説に関わる山だからです。不世出の登山家だった加藤文太郎(「孤高の人」の主人公)が散々歩き回ったのが神戸周辺の山々、とりわけ六甲山系だったのです。今では簡単に行けますが、当時の加藤文太郎はろくに登山道などない所を常人の2倍の速さで上り下りしたそうです。 最後の目的は鞍馬山を鞍馬から貴船まで抜けることです。半年前にヘルニアの手術を受けているのでどの程度回復したか気になりました。手術の担当医が「また山歩きができるようにしますよ」と言ってくれたのを信じてはいましたが、全く心配がなかったと言えばウソになります。幸い何の支障もなくちょうど1時間半で貴船に抜けることができました。 三都と言いますが、神戸と京都には親しみが感じられても大阪にはあまり・・・というのが正直なところです。東京以上にセカセカと動き回る人々の中にいるのは苦手なのです。元々町中を歩くより野山で自然と触れあう方がずっと好きな私なので、混雑と騒音はできるだけ避けたいのです。そのため若い頃から人混みを避け、91歳になる今でも階段を使うのが当たり前になっています。そばにエスカレーターがあっても初めから無視です。長年にわたる習慣なので何の苦痛も感じません。こうした数十年にわたる生活習慣が足腰や心臓の強靱さをもたらしたようにも思います。 |
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4 幼い孫たちのための沖縄旅行 (05.8.7~8.10)
この旅は、当時7歳と5歳だった孫たちに沖縄の諸々を体験させるためのものでした。この子たちも今ではそれぞれ22歳と20歳に成長しています。三番目の孫はまだ影も形もなかったので沖縄は経験していません。 とはいえ、正直言ってこの旅は私には四重苦の旅でした。先ず飛行機に乗ること、これは国内では絶対にしたくなかったことです。次は山でなく海が主役であること、三番目は暑さ、日頃から暑さには並外れて弱いのでわざわざ暑い所に行くのは辛いのです。最後はツアーに加わること、これこそ私が最も嫌うタイプの旅です。 このように我慢を強いられた私の気持ちも知らずに、孫たちは楽しく毎日を過ごしたようです。 |
① ナガンヌ島~蝶々園
1 ホテルのプールで泳ぐ子どもたち 2 ホテルのプールで泳ぐ孫娘 3 沖縄本島から20分の沖合にある無人島、ナガンヌ島へと向かう連絡船上で、救命胴衣もない怖さ! 4 ナガンヌ島の夏空 5,6 泳ぐ準備に余念のない親子 7 揃って海の中へ 8 シュノーケル用のフィンを気にする孫息子 9 親子 10 やっとフィンに慣れたかな? 11 日陰でお休み 12 遮るものもない海 13 砂の中にいる何かを探す二人 14 南国の広い海で遊ぶ人々 15、16 ホテルの朝食 17 琉宮城、蝶々園を回る家族一同 18 蝶々を手にする孫たち |
② 蝶々園~琉球村
19、20 蝶々園で蝶々に変身 21 蝶々園で、大好きなカブトムシに釘付けの孫息子 22 蝶々園で 23 美ら海水族館、魚の大群が泳ぐ水槽 24 大きなエビ 25、26 イルカのショー 27、28 パイナップルパークで 29 琉球村入口 30 琉球村の入口で、シーサーと孫息子 31 琉球村で、家族揃って 32 琉球村、伝統赤瓦の民家 33 琉球村、沖縄の伝統芸能、エイサー踊り 34 琉球村、沖縄の伝統衣装を身につけた二人 35 琉球村のショップで、鳥笛を吹く二人 36 琉球村をあとにする一家 |
③ 摩文仁
37 ホテルで、ツアーガイドと 38 沖縄戦で犠牲になった沖縄第一高女の生徒を悼むひめゆりの塔 39 摩文仁に建設された沖縄県平和祈念資料館 40、41 摩文仁で 42 沖縄平和祈念資料館の全景 43、44 摩文仁 45 おきなわワールド、花のシーサーと二人 46 おきなわワールド、玉泉洞の青い泉 47 沖縄エイサーの実演 48 沖縄舞踊 |