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生きていく上でのこだわり    私の人生を支えた山と音楽  
旅についてのこだわり     旅のプラン作りの手順と実例
 私のホームページ作り    私が生きてきた時代    
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このページの内容について

 自己紹介  戦前から戦中を経て更に戦後と、政治体制や社会状況のみならず全てが激変する時代を生きてきた私の身に
 起こったこととそれへの思いなど、個人情報満載の自己紹介です。                       
 生きる上でのこだわり   誰にでも必ず巡ってくる老いをどう受け止めどのように考えどう対処したかについて、私のこだわりとささやかな実
  践報告です。
  
 旅についてのこだわり   一つの旅を倍楽しめる手作りの旅の良さ、旅先での人々の姿に関する感想などを書いてみました。 
 私の人生を支えたもの   私の生き方に計り知れない大きな影響を及ぼし、前に進む勇気と生きる喜びを与えてくれた山と音楽についての
  ページです。
 
 プラン作りの
     手順と実例 
 旅のプランを作るときの手順を実例とともに示してあります。私が日常的に行っている方法です。 


 個人情報満載の自己紹介 


    年  齢     192912月生まれ、やっと95歳になった。
  現  住  所   科学者をはじめとする多くの先見性ある人々のデータに基づく度重なる警告にも耳をかさず、浅ましい欲望の
  赴くまま目先の利益の追求にのみ走って環境破壊を繰り返す、刹那の享楽に浮かれるだけの愚かで傲慢な
  生き物ホモサピエンスの住みか太陽系第三惑星上の自然災害大国の片隅の掘っ立て小屋。 
  狂わされた人生
  に精一杯の抵抗
◆ 幼かった頃はまれに見るほどの虚弱体質で度々死に損なったそうですが、疎開先での厳しい日常生活、徒
   歩や自転車による長距離通学、旧制中学校での徹底的な体力作りなどで、病気とはほとんど無縁な身体
   になりました。しかし基本的には虚弱体質であるので、現在に至るまで健康の維持には細心の注意を払ってき
   ました。とりわけ、
現代最悪の麻薬であるタバコに毒されずアルコールの世界にも過度にのめり込まずに
   きたことが、現在の健康に大きく貢献している
ことは疑う余地がありません。
◆ 誰にも負けない 向学心を持ちながら突然父を失って断腸の思いで進学を断念し、僅か
18歳の身で母と
   弟妹を養う状況に追い込まれ、少年の頃からの希望とは全く異なる職に就いて
42年を過ごし、90年 に
   定年退職しました。
命を奪われなかったとはいえ、一度しかない人生を完全に狂わせてしまった国家体
  制への怒りは死ぬまで収まりそうもなく、この思いをバネに生きてきた
と言ってもよいくらいです。
  生きる道を自ら選べないほど口惜しいことはありません
◆ 退職の
年後大学の理科系学部に入学し96月に無事卒業しました。42年間心に秘めてきた
  学問への思いが多少なりとも遂げられた
のは何より嬉しいことでした。以後も様々な理系分野に手をのばし
   ながら現在に至っています。
◆ 英検は
級に合格しています。この程度の英語力でもあらゆる場面で世界が大きく広がったことを思うと
   英語は敵性語とされていた中学時代からずっと英語に力を入れてきて良かったとしみじみ感じています。
◆ 退職後の数年間はかなり頻繁に音楽会などの文化的な催しに出掛けましたが、母の介護でそれが不可能
   になってからは、
CDにその代役を委ねました。また、この頃から海外旅行もグループツアー拒否症が一段
   と募り、プラン作りから全てを自力で行うようになりました。
2001年のスイスを最後に旅行先を国内に切り
   替えるつもりだったのですが、結局我慢し切れず
77歳にして中欧(ハンガリー、オーストリア、チェコ)の鉄
   道によるひとり旅という”暴挙”に出てしまいました。異国の地の一人旅は私には何よりも効き目のある栄養剤の
   ようなものなのでかえって体調が良かったくらいですが、無謀な振る舞いには違いなかったことになります。。
  本来あるべき姿と
  現実とのギャップ
◆ 少年の頃持っていた将来の夢は、理化学研究所などで理系分野の研究に励むこと、天文台で星の研究を
  すること、あるいはクラシック音楽の世界に飛び込むことなど、
どちらかと言うとカネ稼ぎとは無縁な分野で
  生きること
でしたが、戦争という国家が個人を押しつぶす理不尽な激動の時代にあってその夢も はか
  なく消え失せ
、前述のように性格上最も合わない人前に立つ仕事、しかも決して創造的とは思えない大組織
  の中での仕事に就かざるを得なかったため、とうとう最後までそのギャップに悩まされ続けたというのが正直な所
  です。国家権力による愚かな所業がこのようにして私の一生の最初の段階を台無しにしてしまいました。
◆ 合わない仕事でもいい加減にできない○○真面目な性格が運の尽きという訳で、結構心身を擦り減らしまし
  た。
ポストハンティングには全く関心を持てず、ひたすら自らが納得できることだけを大切に守り続けた
  がせめてもの抵抗でした。私にとっては、大多数の人々が当然のことのように追い求める立身出世の道よりも
  
自分の信条に忠実に生きることの方が遙かに大切だったのです。旧態依然の組織の論理に基づく納得
  できないことを強要されるのを何よりも嫌う私の性格、これこそ功利主義を排撃する学者だった先祖の血をその
   まま受け継いだ私の、変人たる所以なのです。       
  健康の維持に
  たゆまぬ努力
  

  細心の注意で
  身の安全確保
  
◆ 退職後は年2回(最近は年回程度)の精密検診(胃カメラ、超音波、胸部レントゲン 、心電図、血液検
  査)に加え、随時行われる血液検査で身体各部の状況をリアルタイムで把握するように努めてきました。これら
  の検査データを自分なりに時系列方式にまとめることにより、医師にだけ任せるのでなく自分でも身体各部の
  状況変化を知ることができ、日常の生活で生かすことができます。しかし最近はさすがに
全身の部品の耐用
  年数が切れかかっている
ようで、ちょっとの無理でもその後遺症が目立つようになりました。
私が健康に気を配るのは決してただ単に長生きをしたいからではなく、生きている間はできるだけ自らの
  力で何でもできるようにしておきたいから
なのです。高齢になりかかってからこのことの大切さに気付いても大
  抵は遅過ぎますから。
現代病の一つでもある便利さへの過度の依存は確実に老化を早めます。現代
  人は便利さに慣れ過ぎて非常に骨惜しみをするようになっています
が、昔から言われてきた苦あれば楽
  あり、楽あれば苦あり
は今でも通用するのです。若い頃に楽をすることばかり考えて暮らしていると、その
  つけは高齢になったとき必ず払うことになりがち
なことは明らかです。私の場合は元々の性格もあって何でも
  人に頼らず自分でやることを習慣にしてきため、足腰もほとんど衰えずこの年齢でも日常生活で必要なことは
  全て自力でこなすことができます。
◆ 人混みが極度に苦手なこともあって、90代になった今でもエレベーターやエスカレーターは余程のことがな
  い限り使いません。このことは在職中から習慣化しているため何の抵抗もなく、足が自然に階段に向いてしま
  います。
階段歩行は最良の足腰鍛錬になります。しかも無料で・・・。そのお陰で現在でもどこに行っても階
  段など全く苦になりません。もちろんこうなるには
長年にわたる生活習慣が物を言っている訳で、足腰が弱り
  かけてから慌てても間に合わない
のです。安易に機械に頼りがちな現代の若者の将来の姿が非常に心配
  になります。その意味からすれば、時折耳にする「若者の車離れ」は益々長生きになる今ではある意味朗報と
  も言えそうです。
日々の僅かな安楽志向の行動の積み重ねが少しずつ老化を早めていくことに多くの人
  々が是非気づいて欲しいものです。
◆ 在職中とはもちろん条件が違いますが、普段の食事は内容、時間ともできるだけ規則的に摂り、摂取量は朝
   食、昼食、夕食を比較すると概ね
3:4:2を目安にしています。概ね「腹八分目」を守り、食事内容も
   可能な限りバランスの取れるよう自分で工夫します。因みに、現在の食事時間は朝が6時半〜、昼は11時
   半〜、夜は17時〜です。間食は時々しますが夕食後は食べ物は一切口にしません。また、外食は極力避
   け、やむを得ず摂る場合は適量で質の良いものを選びます。
◆ 
年を追って体力が衰えるのは当然の成り行きですが、それを認識した上で最近も無理のない範囲でハイ
   キングや町歩きなどに出掛けています。よく推奨される大股の速歩きが立派な訳ではないと思っているため、
   自分のペースで自然との触れあいを楽しみながら歩きます。
◆ 
極端に暑さに弱いのが何よりの悩みで、月から月までは地獄の季節です。体感温度は普通の人々
   よりかなり高いでしょう。周りの人は平気でいるのに一人で汗たらたらだったりするのは珍しくありません。四季を
   通して扇子は必需品です。夏はもちろん冬でも普通の人々には適温であろう暖房が、私にとっては我慢でき
   ない程きつくてすぐに汗をかいてしまいます。地球温暖化の加速で益々暑くなりますが、夏の40°が珍しくなく
   なるまでには昇天しているのでその点は幸いです。もっとも、最近は体温調節の機能が低下したのか寒さにも
   以前ほど強くはなくなりました。
◆ 在職中も同じでしたが、
どんなに急ぐ場合でもできるだけ走らない主義です。走れば様々な危険を招き易く
   ときには
それが原因の大怪我で人生設計が大幅に狂ってしまう場合もあるのですから。私の場合、在
   職中は乗換駅で悠々とコーヒーを楽しめるよう
30分の余裕を持って出掛けたものです。つまり、慌てる必
  要がないように早起きしたり早めに出たりする
のが私のやり方なのです。また、階段などで先を争う趣味は全
   くなく、ある程度空くまでは一歩下がって待つのが常です。突き飛ばされる危険を避けるためにも必要なことで
   す。これも時間に余裕を持たせているからこそできるのです。最近はスマホ中毒患者の激増でまともに歩けな
   い人が多くなっているので、そうした人々の動きにも注意することが必要になってきました。
◆ 何と言っても、
体内時計を狂わせない早寝早起きです。在職中は休日も含めて遅くとも12時までには
   寝て
時〜時半には起きました。体力の衰えた最近は10時〜10時半就寝、時〜時半に起
  床が定例化してきました。今では当たり前になってしまった昼夜逆転生活は、自然の摂理に反する不健康極
   まるものだと思っています。
企業の論理が幅を利かす金儲け至上主義の巷で踊らされていると、何よりも
  大切な健康を損ない
ます。また、そのような生き方に若い人々を追い込んでいる現在のアメリカ型の弱肉強
  食の経済システム
強欲資本主義には深い怒りを感じています。
◆ 
車は、人類史上最も便利である反面最も危険度の高い乗り物です。私の場合、運転とは70歳の誕
  生日を迎えた時点でキッパリ絶縁し、以後は徒歩と自転車、公共交通機関で何でも間に合わせています。
  多少不便でも、体力の維持や老化防止など大きなメリットがあるのです。反射能力の衰えた高齢者が危険を
  冒して運転せざるを得ないようにしてしまった
車中心の交通政策が最大の問題であることは明らかです。高
  齢になってからの運転を得意がる人もいますが、私には全く理解できません。痛い目に遭って初めて後悔して
  みても、もはや遅過ぎるのです。最近話題に上ることが多い自動運転も全面的に信頼できるのでしょうか?
  ましてや、空を飛ぶ車などいくら厳重な法規を作っても必ず破る人間が出るに違いなく、真っ平ごめんです。 
  絶えざる好奇心
  学問への情熱
  
  メディアへの消え
  ることなき不信
  
  ある種の頑固さ
  絶滅寸前の人種  
◆ 一部に立派な社会活動をしている人もいるとはいえ一般に品位を欠き虚飾に満ちた芸能関係や、人を地
  獄に誘い込みがちなギャンブルには全く興味がありません
が、それらを除けば物事に対する好奇心が極
  めて強く
一旦関わると中途半端にせずのめり込み、とことんまで頑張ってしまう傾向があります。何事もある程
  度メドがつかないと止められないためかなり疲労の蓄積する性格です。しかし、終日何もせずボーっとTVにお
  守りされて過ごすなど、国家によって貴重な人生を台無しにされた者にとってはとても勿体なくてできません。
  言ってみれば、
私はある意味で常時熱中症患者なのです。
◆ 特に、多少なりとも
学問的な要素を持つ事柄に対しては非常な興味を持ち、何でも100%を目指
  して努力
します。大学も英検も、そしてパソコンもそうでした。何事でも100%を目指してやっと80%
  程度を達成できるのが人間
なので、最初から目標を低くする気にはなれないのです。原動力は 「学問の世
  界で生きること」を切望しながら果たせなかった悔しさです。何故って
未知の事柄に挑戦し自力でそれを
  乗り越えるほど刺激的で喜びを感じさせてくれるものはない
ですから。今どきはやらない考え方ですが「三
  つ子の魂百までも」です。
◆ 
付和雷同ができないタイプで意味なく群れるのを極度に嫌います。ただし、決して人と付き合うのが嫌いと
  いう訳ではありません。ただ
ミーハー的な感覚でワイワイガヤガヤ集まるのが性に合わないだけです。誠実
  で物事を真面目に考えることのできる仲間は考え方や意見如何にかかわらず世代や性別などは無関係に大
  切にします。
下劣な言動は耳にするだけでも不愉快で大嫌いですが、気の利いたユーモアは好きでもあり
  自分でも結構得意なのです。
◆ 
物事は何でも自力で計画し実行するのが最善と思っていますし、また実際にそのようにしています。自分
  で汗をかかずに最初から全てを他人任せにするのを好まず、基本的に自力本願を通しています。
他人の敷
  いたレールにただ乗っかっているだけでは自分の存在する意味がない
と思うのです。旅はもちろん、日常
  の小さなことに至るまで事情の許す限り自分の流儀で行います。
◆ 自分で言うのも変ですが、真面目(前に何か付くかも)で綿密、独立心が強く、学問に深い関心を持ち、他
  人の無責任な言動、特に
視聴率至上主義のTVには極めて批判的で盲従することは絶対なく、長い人
  生経験に基づく様々な教訓と、
机上の理論や風評でない事実による判断を大切にします。最近特に目
  立ってきた
ネットによる他人への中傷やデマ情報の拡散に見られる「匿名だから自分は傷つかずに何
  でも気ままにできる」
という卑怯極まる行為を恥じない輩の増殖には、日本人の変質を感じさせられます。
 納得できないことには安易に妥協せず、最後まで譲らない強さがあります。最も嫌うのは、伝統の名の
  下に因習めいたしきたりを強要されたり、組織の都合を優先に正論を”青臭い空論”などと称して封殺
  されたりすること
です。最近の風潮として、真面目に物事に取り組む人間よりもユーモアとは無縁の下劣な
  おふざけの得意な人間の方がもてはやされる傾向
がありますが、これこそ人間社会の堕落を表すもの
   あると思います。それを助長しているのは民放番組の一部ですが、スポンサーがそれを要求しているとしたらも
   はや論外です。また、
そうした人物を熱狂的に崇拝する人々の多さは私にとって“永遠の謎”です。
◆ 
決して豊かではない一庶民に過ぎない私ですが、カネに目の色を変える習性は全く持ち合わせていませ
  ん
。それどころか、最近特に激しくなってきた「カネ万能主義」には強い憤りを覚えています。自民党政権
   と経済界のボス連の結託で
人々がカネの亡者に仕立て上げられてきた近年の風潮は、悲しく嘆かわし
   い
ことだと感じています。30歳過ぎまで極貧の生活をしたのに、なぜカネへの執着があまりなくこのような考え
   方をするのか自分でも不思議ですし、恐らく誰にも理解できないことでしょう。多分、
貧しいことよりもカネに目
   の色を変えることの方が遙かに恥ずかしいこと
なのだという古き良き時代のモラルが、骨の髄まで染みつ
   いているのだと思います。
◆ 
公共マナーでは誰にも負けない自信があります。遠い昔、まだ大人たちに権威と子育ての哲学があっ
   た
頃基本的なマナーを完全に刷り込まれた身には、老若男女を問わず平然とルールを破りマナーを無視す
   る現状が信じられません。
幼少の頃の躾の意味を理解できない親の激増は極めて嘆かわしいことです。
  
白紙の状態の幼児期に基本的な行動規範や物事の善悪を教え込むことの重要性が忘れ去られた
   のが、今のような半ば腐敗した社会を生み出した
ことはまぎれもない事実です。もっとも、だいぶ前からは
   (格好だけは立派に見える)大人が平気でルールを破り悪事に走るのが日常茶飯事になっていて、とても子
   どもの模範になれそうもありませんが、
「子ども大人」の氾濫する状況では当然かも知れません。「アリの一
   穴」のことわざのように、
小さな約束事を無視する日常の積み重ねがやがては防ぎ切れないモラルの崩
   壊を引き起こす
のであり、昨今の日本は確実にその道を歩んでいると思うのです。
◆ 
性別・年齢・人種等で人を差別する意識は全く持ち合わせていません人を判断する基準はあくまで
   もその人の人柄(発言の内容や態度など立ち居振る舞い全般)によってであり
、地位や肩書きには全く
   影響されることはありません。私に言わせれば地位や肩書きは一種のアクセサリーであり、問題は人物そのも
   のがそのアクセサリーのきらびやかさに相応しいかどうかだと思うからです。恐らくそうすることが処世術の極意
   なのでしょうが、アクセサリー欲しさに上司にへつらうなど卑屈な手段を弄した人間にはとかくその影がつきまと
   い、往々にして尊大で粗野な言動に走りがちです。
本当に立派な人間は自分がどんな地位にいようと他
  人を見下すことはせず丁寧で温かい態度で接するものです
。「長」が付くと途端に居丈高になりふんぞり
   返るのは最低の人間なのです。つまり、一言で言えば
実るほど頭を垂れる稲穂こそあるべき姿だと思うので
   す。残念ながら、世のいわゆるお偉方には中々そのような人物はいません。
町内会から政界に至るまで
   知で傲慢、下品で図々しい人間
が我が物顔に振る舞う
例が少なくありません。中身の貧弱な人間ほど
   権力や肩書きを欲しがることが多く、そのような輩はとかく仲間を立場の上下関係だけで区別しがちで、
人間
   の価値はレッテルとは無関係である
ことにさえ気付かないのです。このようなタイプには私は最も嫌悪感を持
   ちます。もちろんカネのぶんどり合戦に長けることが人生唯一の目的であるかのような風潮をもたらした
拝金主
   義者
は私が最も軽蔑する対象です。
…………………………………………………………………………………………………………………
  これらの裏返しとして
一般の人には歓迎されない欠点が数え切れないほどありますが、多くはいわば不治
  の病なので今さら矯正する気は全くありません

◆ 
いわゆるなあなあの”社交性”はスッポリ欠落しています。、決して”八方美人” にはなれないタイプで物事
  によっては”四面楚歌”でも気にはしません
。日本人の美点とされてきた「和」≒「大勢に逆らわず無難に合
  わせるのが世間の常識」にもついていけない気持ちが少なからずあります。この世の全てが合理性だけで割り
  切れるものでないことは分かっていますが、昔からそうだというだけの理由で因習の維持に手を貸している場合
  もないとはいえないと思うのです。
◆ 人間社会のいい加減な部分には中々寛容になれず、常に何かに疑問やいら立ちを感じがちです。特に

   剣になるべき場合でも茶化してしまう現代社会の風潮には絶望
を覚えていて「それを助長するのは、「視
   聴率を上げるためには何でもやる一部の民放
TV」という思いこみが激しい人間です。おふざけしか知らない
   三流の芸能人が複雑な社会問題について上っ面だけを見た感想を得意げに喋るなど笑止千万です。街
   頭でのインタビューのお粗末さも相変わらずで、主題についてのしっかりした認識を元に意見を述べる人はほん
   の一部であり、
国際情勢や社会問題に日頃無関心な人々の多さが目立つばかりです。スマホ全盛で
   自らの興味にだけのめり込み、世の中の移り変わりやそこに内在する問題点など意識さえしない風潮が津々
   浦々にまで蔓延した今、現代日本人の関心は金儲けとスポーツ、グルメ、それに芸能(特にお笑い)なのか
   も知れません。正に
マッカーサーが目指した「日本人骨抜き政策」が見事に結実したとも言えます。
◆ 物事をきちんと処理しようと努力せず他人に迷惑や損害をかけて平然としている人を見ると、どうしてもそのま
   ま放っておけない気持ちになりますが、最近のようにすぐナイフを突き出したり暴力に及んだりする野獣のような
   輩が多くなってくると、そうばかりも言っていられません。残念ですが命の危険を冒してまで注意するほどの勇
   気は持ち合わせていないのです。消極的であることは否めませんが、
他人がどうあろうと自分だけは決し
   て人間として恥ずかしい振る舞いはしてこなかった
ことだけは誇ることができます。
◆ ここに全てを書くのは不可能ですが、物の考え方や感じ方が青臭くかなり変わって いて短所だらけです。そ
   ればかりか、
いつまで経っても青臭く、幼稚な正義感から抜けられないことを誇りとさえしているだけに
   尚更手に負えないのが私です。
現在は「独り言」の欄に勝手気ままな意見を載せることができるので、
   それが鬱憤のはけ口
になっています。  
  多過ぎる趣味で
  いつも時間不足
  かなり多趣味であるのにもかかわらず、在職中は時間の関係でほんの少ししか楽しむことができず、イライラさせ
  られるときもありました。退職後は一応そのような悩みは少なくなりましたが、 それでも色々な事情から中々思うよ
  うにはいきません。残念ながら、怪我と脳梗塞のあとはこれらのうちの幾つかは不可能になってしまいました。

@ 鉄道旅行…全ての乗り物の中で最も安全で確実、車内の空間で自由に移りゆく窓外の風景などを楽しめ
      る
単なる移動手段ではなく最高の時間を与えてもらえる旅。
A ハイキング…多少の衰えはあるものの相変わらずの健脚を駆使して高原や渓谷を歩き回るのは、心に栄養を
      注ぎ込む一番の近道。都会の喧噪を大の苦手とする私には活力を得るための不可欠の時間。
B ピアノ演奏…音楽教室などない時代に育った身であるため全て独学。
数年前に電子ピアノに変え、60
      代フォーク、情緒豊かな映画が多かった頃の映画音楽、心の隅々までしみ通るクラシックの名曲の数
      々
を楽しむ。読譜力はあるが独学の悲しさで指使いは自己流だが趣味としてはそれで十分。
C 
ホームページの運営2004.3.16に開設し絶えず改良を加えつつ独自の方式による「写真旅行記」として
      続けたがプロバイダーのサービス終了で
2019.12.15に一時停止。新たなプロバイダーにより2020.3.5
     から仮の内容で運営してきた。ようやく完成をみて今回発表。大嫌いなCMは徹底的に排除。
D 写真の撮影…山や高原などの自然風景、鉄道関係、
HPに掲載する旅行関係の写真が中心。古くは
      フィルムカメラ、現在は一般的なデジカメ使用。
E 
パソコンの活用HPによる発信、画像処理(Photoshop Elements)、文書作成(一太郎)、インターネ
      ットによる情報取得、文書と画像の保存、メール送受信、カシミール
3Dによる作図、各種ゲーム。
F 
山岳愛好…麓からの自力登山は卒業し交通機関を利用する省エネ山行に。山への愛着が極めて深く、
    DVDや写真集、TVのドキュメンタリーなどでも楽しむ。国内では穗岳、剣岳、谷川岳、鹿島槍
      ヶ岳、海外ではマウントクックやユングフラウ、八方美人よりも個性豊かな山が好き。。
G 
鉄道愛好…鉄道に関する全てに強い関心を持つ。乗るのが大好きで長時間でも飽きることはない。車両
      の研究や撮影は適度。
SLよりも電気機関車に興味がある。鉄道関係のDVD、写真集や地図
      などの出版物を収集。
JTB時刻表は貴重な情報の宝庫で最大限に活用。
H 
偏向読書…外出時に本の携行は習慣化。読書の傾向は偏り、 新田次郎の山岳小説や松本清張など
      の推理・社会小説、各種のドキュメンタリー小説、田辺聖子や瀬戸内寂聴などによる現代語訳され
      た古典物語(特に 源氏物語)、それに社会の恥部を厳しく指弾する社会小説などに偏る。最近の作
      家の著作は一部を除けばあまり合わない。携行の利便さや収納の関係で専ら文庫版。
I 
偏向視聴NHKを主とする良質の自然・紀行・報道番組やドラマなどの視聴。例えば「地球絶景紀行」
      「さわやか自然百景」「にっぽん百名山」「日本の名峰・絶景探訪」「世界水紀行」「ヨーロッパ空中
      散歩」「鉄道・絶景の旅」「記憶に残る列車シリーズ」「歴史秘話ヒストリア」「
NHKスペシャル」「コズ
      ミックフロント」「プラネットアース」などの他「相棒」「科捜研の女」「税務調査官」などのドラマ。
      もちろん
NHKニュース。BS放送で野球やテニス。ごくたまに娯楽番組。おふざけ番組や歌番組
      には全く興味なし。
J 
映像の保存…上記の放送番組のうち特に残しておきたいものはCMを完全に削除したのちDVDに保存。
      かつてビデオテープに保存したものは、かなりの時間と労力を費やし
デジタルTVDVDレコーダー
      の併用により
DVDに移した。現在の在庫はおよそ470枚。
    
 
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 生きていく上でのこだわり 

 
年を重ねることに伴う体力等の変化には留意しながらも、
年齢には縛られず前向きに進んで新しいものに取り組むようにしています。一度しかない人生だからこそ、ただ年を数えていたのでは勿体ないと思うし、青春を奪われた私にとっては少しでもそれを奪い返したい気持ちに駆られているのです。

人間は誰でも年を重ね肉体的には衰えていきます。しかし、
年を取ることは恥ずかしいことでもなければ嫌なことでもないのです。本当に恥ずかしいのは精神の老いです。現在のこの国では、多くの人々は年齢を高く見られることをひどく嫌い、少しでも若く見られようとする傾向があります。その結果、年を取るに従い人々は理由のない引け目を感じるのかものの考え方が内向きになり、行動も周囲に合わせることが第一になりがちです。この殻を打ち破って古い”老人モード”から抜け出すことこそ生き生きした生活の源だと信じています。「もう年だから・・・」という後ろ向きの考え方が心身の老いを加速するのだと思います。変人の私は、むしろ早く年を取りたい気持ちがあります。理由は、「ほらこの年までこのように元気で生きてこられたよ」と自分に誇ることができるからです。誰でも簡単にできる発想の転換です。もちろん、そのためには長期にわたる適切な健康管理の継続が不可欠ですが。

初めは手に余るように感じることでも、諦めずに挑戦していけばいつかは壁を乗り越えることができると信じています。最初から諦めていたのでは、何も得られません。求めよ、さらば与えられんです。現代人の欠点の一つに「ちょっと骨が折れそうな事には手を出さない」あるいは「難しくなるとすぐ諦めてしまう」ということがあります。学生時代に壁を乗り越える経験をさせていないことが原因だと思います。

皆が自分の好きなことだけにしか関心を持たなくなるのは非常に危険な一面があると思うのです。なぜならば、関心の対象が違う人間同士ではお互いに相手のことを正しく理解できなくなるからです。もちろん人間の能力には限界があるので全ての事柄に精通するのは不可能です。そこで、誰にとっても「最低限必要と思われることを広く薄く教え込むのが義務教育」ですが、戦後は占領軍の政策もあって「狭く、より薄く」になってしまいました。地理を例にとれば、都道府県の位置と主な都市や世界の主な国々の位置と首都ぐらいはほとんど誰でも知っていました。要するに「最低必要な知識は繰り返し詰め込んだ」のです。それなのに、屁理屈の達者な教育学者などが「詰め込みは悪」というバカげた考えを広めてきたのです。基本になることは理屈抜きで詰め込むことが必要だというのが私の考えですが、子どもの躾なども含めて、詰め込むべきことと自分で考えて結論を導き出させることを区別せずにきたことが、学力だけでなく社会全体のあり方にもある種の悪影響を及ぼしていると思います。

TVやインターネットなどがなかった頃と比べれば、今は膨大な情報が全世界を飛び回っています。もちろんその中には無数のニセ情報や悪意に満ちた情報も含まれています。このような情報過多の時代には個人個人が視野を広めることが非常に大切だと考えています。日々関わる身辺の雑事だけでなく電子顕微鏡の世界からブラックホールの世界まで、広く関心を持つことが大切だと思います。常生活に直接関係する事柄だけにとどまっていると、どんどん視野が狭くなってしまいます。考え、思い、空想するのは自由なのですから、半径
3kmしか見ようとしないのは非常に勿体ないことです。中でもメディアから与えられる情報は十分吟味する必要があります。メディアは視聴率に支配されているためその上昇に役立つ情報しか取り上げません。同じ時間帯に同じ話題をいくつものメディアが放映するのもそのためです。ともすると、そうした情報に乗せられてもっと大切な情報から目をそらされてしまいますが、危険極まりないことだと思います。TVもインターネットもあくまでも自分の意志で使うものであり支配されるものではないのです。もちろん、昨今最強の主役になっているスマホやタブレット端末も同様の問題を抱えていると思います。、また、情報伝達のスピードが近年になってどんどんとスピーディーになり、人々の話し方も非常にせわしなくなってきました。その結果、物事の軽重にかかわりなく内容の消化不良の度合が高まることになります。

安全第一をいつも心がけています。思い通りに生きるためには身体という資本が最も大切だからです。しかし「安全第一=消極的」という訳ではないのです。不必要な、つまり避け得る危険からは身を守るということです。人生の全ては大なり小なり確率に支配されています。従って、
危険な目に遭う確率をできるだけ少なくすることが思い通りに生きるためには必要不可欠ということになります。危険を承知の上で行動する必要がある場合は、当然周到な準備をしなければならない訳です。例えば私の場合、自転車に簡単なサイドミラーを付けているだけで後方からの車に対する情報が得られ、安全性は格段に向上しています。これはほんの一例ですが、ちょっとしたことで危険から身を守れるのです。このように注意深い私でさえ、他人の不注意のとばっちりで2022年の9月には思わぬ事故に遭い、自転車と決別する羽目になってしまいました。

物事には全て表と裏があります。メビウスの世界のような表裏のないものは皆無です。ある事物の利点にだけ目を奪われていると思わぬ禍いを招きます。日常生活では何事についても利点と問題点を並べて判断を下すことになりますが、どの場合でも必ず
マイナス面の存在を忘れないことが極めて重要だと思います。家庭電器でもインターネットでも車でも、それぞれの便利さだけに目を向けずマイナス面、つまり様々な危険性をも意識してそれに備えることが大切だと思います。どのような利点がありどんな点に注意するべきかはそれぞれ違いますが、選択の仕方には人それぞれの持つ価値判断の基準や人生観が大きく関わってくるように思います。最近はそうした機器に関する基本的な知識さえ欠く人々が増加していますが、これも他人任せの生活に慣れ過ぎていることの現れかも知れません。

外見を飾ることに興味を持つのはもちろん人それぞれの自由ですが、大切なのは他の人々に不快感を与えないようにすることです。そのためには
内面を磨くことがより一層大切になってきます。人柄は言動によく表れますちょっとした言動からその人の内面のあり方がわかるものです。身なりだけは立派な人間がちょっとした諍いで口汚くののしる光景も目立つようになりました。日本人は肩書きで人を評価する傾向が強いですが、肩書きと人物そのものが必ずしも比例しないことは昨今の官界や民間企業のリーダーたちのていたらくを見れば明白でしょう。大切なのは誠実であることと他人(特に見知らぬ他人)に対する尊敬の念と優しさだと思います。地位や財産などあらゆる付属品を取り去ったあとに何が残るかで人間としての価値が分かると私は思っています。貧弱な中身にきらびやかな包装をしても本物の値打ちは生まれないでしょう。現代はそのような虚飾にこだわる人が増えているように思えてなりません。そのことは、最近の政治家(と称する者)どもの目に余る行状にも歴然と現れています。

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 旅についてのこだわり 

怪我などの関係で今後の私は旅も難しくなるとは思いますが、参考までに今までの私が持っていた旅に関する考え方を述べます。

  原則としてひとり旅です。理由はただ一つ、何の気兼ねもなく自由に歩き回り、気に入った所でたっぷり時間をとって楽しむことができるからです。ツアーコンダクターの旗の後についてドヤドヤと歩き回るのは、私のようなわがままな人間には耐えられないことです。まるで自分の意志を持たない羊が屠所に連れていかれるような感じがしてならないですから。海外旅行も最初のうちはグループツアーで行きましたが、だんだん息が詰まってきてひとり旅オンリーになりました。旅に限らず何事でもそうですが、自分で汗を流し苦労を重ねて得たものは他人任せで楽をして得たものより遙かに内容が濃く、深く刻みつけられた記憶として人生を彩ってくれるのだと思います。

もちろん、グループツアーでなければ出掛けられない人々もいることは当然ですし、私自身もいつそうなるかは分かりません。だからこそ、それまではこのように自分流の旅を続けたいのです。

また、短時間にできるだけ多くの場所を回るのがいい旅とは考えません。
旅の目的に合わせて精選した場所を時間をかけて訪れるのが最も意味があると思っています。

ひとり旅の場合は当然
綿密な事前調査と周到な準備が必要になります。旅に出掛ける前に現地の状況を十分に把握し、全体の輪郭を頭に入れておくことです。これは一見面倒な作業に見えますが、この過程が旅の楽しさを倍加させてくれるだけでなく、何回も吟味を繰り返している間に地図もルートも自然に頭の中に入ってしまいます。

また、特に
海外の場合は安全に関する情報は確実に得ておくことが必要です。もっとも、最近は国内にも”人間の皮を被った野獣”が多数放し飼いにされているようなので、決して油断はできませんが・・・・。

私の場合、
まず体力を必要とする海外の旅、そののち国内の旅をと考えました。事実、あの狭い機内で十数時間も過ごすのは、決して楽なことではありません。特に時差の大きい東西の移動は、時差対策をきちんとしてもかなりきついものです。

それにもかかわらず、私には国内より海外の方が向いていたようです。国内ではどこに行っても混雑する上公共マナーに無頓着な人も増えて気疲れがひどく、ゴミの散乱やタバコ、騒々しいわめき声などに悩まされますが、海外では場所さえ選べばそのようなことは殆どなく自分の流儀で落ち着いて歩き回れます。
外国人に囲まれて見知らぬ土地にいると自分が地球上に存在しているのだという思いが不思議なほど身近に感じられます。

国内は
50代までの信州を主とする登山以外はほとんど訪れてなく、北海道には2005年まで、四国に至っては2010年まで一歩も足を踏み入れてはいませんでした。最後の未踏の地であった九州には2012月になって初めて行きました。2002年から国内の旅に切り替えたもののほとんどは登山やハイキングという有様でしたが、80代の後半あたりからはさすがに体力の関係から街歩きも多くなってきました。

移動は公共交通機関、とりわけ鉄道が最優先です。荷物の問題などちょっとした苦労はありますが、出発日と帰着日は宅急便を利用すれば問題ありません。何と言っても全ての交通機関の中で際だって安全です。元々レールファンでもあり、車窓からゆっくり風景を楽しんだり駅弁に舌つづみを打ったりするだけで十分満足できるのです。鉄道車両自体への関心も深いので、退屈する暇はありません。どんなに低料金でも、車内が狭く危険がいっぱいの道路を走る長距離バスは大の苦手ですし、事故に遭う確率が他の交通機関より格段に高く(年間数千人もの死者とその100倍以上の負傷者を生み出す)無法ドライバーが年々増える車はもちろん、事故の確率は低いものの一旦落ちればまず命がない飛行機も真っ平ごめんです。「格安」という文字を見た途端その裏に見え隠れする「安全軽視」を思い拒否反応を示すという変わり者で、費用や所要時間、乗り換え の多さなどよりも、安全性の確率の高さを先ず考えてしまうのです。
     


 旅先で見かける諸々の光景 

ここに書かれた内容は、私の今までの経験から独断と偏見に基づいて書いたものなので、
当然異論があると思います。
ご意見があればメールコーナーからお送りください

      
私は
観光バス旅行がどうしても好きにはなれません。狭い車内に押し込められ、聴きたくもない歌やガイドの説明を押しつけられるのが苦痛だからです。戦後流行し始めたこのタイプの旅が果たした旅行大衆化の功績はもちろん理解していますが、その反面、車内での勝手放題な振る舞いを車外の公共の場にまで平然と持ち込み、団体なら何でも許されると迷惑行為を平気でやらかすような風潮を作り出したのも事実だと思います。普段会うことのない人々との交流に大きな楽しみを見いだす人も多いようですが、それはそれで結構なことではあります。しかし、私はとにかく「みんな同じ」という形が大の苦手なので、観光バスには興味を持つことができないのです。

普段でもそうですが、旅先で道を譲るなどちょっとした気遣いをしても
「有り難う」「済みません」の言葉はほとんど聞かれなくなってしまいました。別にこうしたお礼の言葉を期待している訳ではありませんが、これらの言葉はごく自然に出るはずのもので、それがないこと自体が現代日本人の内面の貧しさを表していると思うと、とても寂しい気持ちになります。欧米人なら大多数が必ず Thank you. Excuse me. Please・・・などという言葉をごく自然に返してくることは、ヨーロッパを個人で歩いた人なら誰でも知っているでしょう。それどころか戦前の日本人はそうした面では遙かに礼儀正しく温かい応対ができたのです。

他人を押しのけて平然としている人も増えています。彼ら(彼女ら)は「譲る」ことを負けることだとでも思っているのでしょうが、そうした行為が自分自身の心の貧しさのバロメーターであることに気づいて欲しいものです。人のひしめく狭い国だからこそ、尚更お互いに譲る気持ちが大切なのだと思うのですが・・・・。ついでに言えば、人々の歩き方も随分下手になっています。本来は周囲の人の動きに気を配りながらできるだけ接触を避けるように、ごく自然に歩く方向やスピードを調節するのですが、ひたすら自分の目指す方向に突進する人が目立つようになってきました。当 然のこととして腕や持ち物がぶつかったり、ときには身体をよろけさせたりで、一悶着起きる原因にもなります。方向や速さの調節に加えて、混み合う場所では身体自体を斜めにするだけで接触が避けられるのに、それすらやろうとしません。ここにも、現代日本人の自己中心的な面が現れていると思います。

旅先で楽しく過ごしたいのは分かりますし、グループで笑いさざめくのが悪いとは言いませんが、問題は周囲への気配りです。
周りの人たちに迷惑がかからない程度の”音量”に抑えるのが常識でしょう。静かに風景などを味わいたい人間にとっては非常に迷惑なものなのです。ここにも、仲間には気遣いを示せても見知らぬ人々には無遠慮になってしまう現代日本人の習性が現れています。電車内などでも同様の振る舞いに少なからず遭遇するため、私はいつも耳栓を携行しています。

公共交通機関には”優先席”というものが存在していますが、多くの場合その必要がなさそうな人々に占められています。私の場合は一応高齢者でも足腰が強靱なので全く必要がなくこだわりませんが、中にはどうしても優先席を利用したい人もいる筈です。本来、状況に応じて席を譲るのは当たり前なことですが、ここでも、公共マナーというより
他人に対するいたわりの点では戦前に遠く及ばなくなっていることを感じます。経済至上主義の社会は、必ずこのような人間性の摩耗を招くのです。

登山道などでは原則として「登り優先」です。また、貴重な高山植物などを踏みにじるようでは、自然に向き合う資格があるのかどうかさえ疑問になります。「他人が行くから行く」という無目的な人々はとかくこのようなことに気を配らず身勝手な行動を取りがちです。

素晴らしい自然景観が沢山あるのに、
これほど貴重な自然を痛めつける国は先進国(と自称している)日本だけでしょう。自然界の極めて微妙なバランスを理解しようともせず開発という名の破壊を繰り返している有様を目の当たりにすると、怒りを通り越して悲しくなってしまいます。観光立国をいくらうたっても、肝心の自然を大切にしない限り、京都や奈良などお決まりの場所以外を訪れる外国人が激増することは望めないと思います。

100年も前に4000mの高所まで車以外の交通機関だけで行けるよう整備したスイスは別格としても、所嫌わず自動車道路をつくって観光客を誘致する近視眼的な方策がどんなに自然に大きなダメージを与えるかさえ認識していないのには驚きます。「誰もが楽にいい景色を眺められるように」は表向きで、実は「カネ儲けのためには手段を選ばず」というだけのことです。車は自然を傷めるだけでなく静かに眺めたい人々を危険と騒音、排気にさらし、時にはゴミを持ち込む不心得者も招き入れてしまいます。マネーはあってもマナーを失ったこの国では今はあちこちでよく見かける悲しい光景です。
  ※ 
日本の自動車事情がどれほど異常なものかについては、「独り言」に詳しく述べてあります。

少なくとも観光の目玉であるいわば核心部へは、電気自動車か徒歩で行くようにするのが自然を大切にする態度でしょう。パーク&ライド方式を取り入れるのも一案です。
安易に車を入れてならないのは尾瀬や白神山地だけではないのです。近年世界遺産に指定された知床も観光道路ができた今では、いつ「ゴミ半島」と化すのではないかと危惧しています。富士が山麓や山頂の汚さを理由に長いこと世界遺産に指定されなかったなど昔風に表現すれば「国辱」でしょう。都市郊外にこのような場所が無数に存在することから考えれば、富士はその(日本人のモラルの低さの)「象徴」に過ぎないのかも知れませんが、これも精神的なアメリカナイズのなせる技の一つに過ぎないように思います。。
        
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 旅のプラン作りの手順と実例 


ひとり旅が多かった私にとって、具体的な行動プランを詳細に作るのは現地での行動をスムースにするためには必要不可欠なことでした。そこで編み出したのがこのような形の旅行計画です。参考になる部分も多少はあると思います。

   
現地でいちいちガイドブックを開いて情報を探さなくても済むように、行動時に必要と思われる事柄を網羅したものを作ります。
部は携帯用とし、紛失に備えて予備も作成します。

急に予定を変更せざるを得なくなる場合を予想して、乗り物などは必要と思われる範囲まで情報を把握しておきます。

時間配分は標準の
20〜30%増しに設定します。これによって余裕ができ、状況の変化に応じて最適の行動を取ることができます。



 プラン作りの手順 


    
@ 旅のテーマをはっきりさせる。何を見たいか、そのためにどこに行くかなどの候補を挙げて
       みる。初めは思いつくまま書きとめ、優先順位をつけておく。  
        
    
A 市販のガイドブックやインターネットから得た情報を使って候補地の情報を収集し、旅の
      目的にどの程度合うかを判断
して取捨選択をする。
         
    
B Aで選んだ場所を、なるべく重複せずに順序よく回れる経路を検討する。
         
    
C @〜Bをもとに、具体的な行動プランを作ってみる
         
    
D Cで組んだ日程の中に無理や無駄がないかどうかを検討し、修正を加える。
         
    
E 最後にもう一度全体計画を細かくチェックして、最終的に決定する。

    ※ 
海外旅行の場合は、できるだけ訪問国の航空会社の便(直行便がないときは、訪問
       国以外の外国航空会社の便)
を利用するのがよいと思います。そうすることによって、
      発から帰国までずっと外国滞在中と似た雰囲気を味わえる
のです。ヨーロッパなど遠
       隔地への旅では
1〜2日を機内で過ごすので、決して無駄にはできないことです。
    

 2007年「中欧都市巡りの旅」の計画立案に使用した資料は、下記の通りです。 

    トーマスクックの
  ヨーロッパ鉄道時刻表
    地球の歩き方
    (ハンガリー版) 
    地球の歩き方
   (オーストリア版) 
    地球の歩き方
     (チェコ版) 


     このときの旅では、現地の詳細な情報取得にインターネットが非常に役立ちました。

    
   ○ 気象関係の情報(天気、特に気温変化の見通し)
           
※ 各都市の詳しい天気予報や週間予報も随時容易に得られました。
        ○ 時刻表に掲載されていない交通機関の情報
           
※ トーマスクック時刻表の発行日の関係で、利用できる列車の把握はインターネッ
              トに頼りました。東欧関係は、ドイツ鉄道やハンガリー国鉄の
HPが役立ちました。
           
※ 地下鉄やトラムの運転間隔、バスの時刻表まで把握することができました。
        ○ ホテルの宿泊設備やサービスの状況・・・かなり細かい情報も得られる。
           
※ ホテルとの間で、予約確認や禁煙ルーム希望、その他の情報取得のため何回
              かメールを交換しました。

        ○ 訪問地や施設に関する細かい情報
 
           
※ 各都市や施設のHPにアクセスして、有用な情報を多く得ることができました。
       
○ その他、様々なリアルタイム情報 
           ※ ガイドブックに載っている情報の中には結構古いものや誤ったものが含まれていま
              す。それだけに、インターネットによるリアルタイムの情報はたいへん貴重です。

      このように、インターネットを利用するかどうかで大きな情報量の差が生まれます。
       もちろん、このことは国内の場合でも同様です。



 プランの実例 

 2007年「中欧都市巡りの旅」のプラン(全22ページ)の中から、その一部を示してみます。

 @ 初日、ブダペストの空港での手続きから、ホテル到着までの必要事項のまとめです。 

   ○ 初めての土地であるだけでなく、旧東欧ということでシステムの違いも予想されるため、空港構
      内の施設配置などを勘案して処理手順を決めました。その結果、全く迷わずスムースに動けま
      した。
   ○ 特に全く知らないハンガリー語の表示にまごつかないよう、単語に添えてその発音も書いておい
      たのが役立ちました。

     ※ ホテルの地図と写真は、移動手段によっては不可欠であるので添えました。 

          A ブダペストからウィーンに到着後の時間を利用してシェーンブルン宮殿を訪れるプランです。

   ○ の●印は地下鉄路線の色と途中駅の数を表しています。こうすることによって、途中
      駅の駅名が見えなくても目的の駅で降りることができます。

   ○ ホテルはまだチェックイン時刻前でスーツケースだけ預けてリュックで出掛けたのですが、全
      く迷うことなく余裕を持ってシェーンブルン宮殿と庭園の散策を楽しむことができました。
   ○ シェーンブルン宮殿を訪れた理由は、ここだけが他の目的地とはかけ離れた場所にあるか
      らです。これが功を奏して、翌日ウィーン中心部の多くの施設を効率的に回ることができました。

 B ウィーンからプラハへ移動し、ホテルに到着するまでのプランです。

   ○ 直通列車が少ないので、予定したEC172以外の乗り継ぎできる列車も併記しました。万一の
      場合のためです。
   ○ 
の●は、ウィーンの場合と同じように地下鉄路線の色を示しています。


     
実例についての補足説明                          

  
○ 海外の地名は、カタカナでなく現地語の表記にする方がよいと思います。あまりなじみのない
      国の場合は、現地語とカタカナの併記がいいでしょう。そうすることによって、現地の駅や施
      設、町中に掲げてある地名との対照ができます。
   ○ 入国手続きも国によって多少の違いがあるので、常識的なことでも明記しておくとその場で迷
      ったりすることがなくなります。
   ○ 鉄道路線に付記してある(  )内の数字は、トーマスクック時刻表の中に掲載されているテ
      ーブルナンバーです。
   ○ 予定している列車以外にも利用可能なものを複数挙げておくことが大切です。状況が変わ
      ったときに慌てて調べ直したりする必要がなく、臨機応変が簡単にできます。
     

国内の旅やトレッキング・ハイキングの場合もほぼ同様のプランを作っています。

2009年の秋、快晴の日間、山と峡谷と世界遺産の村を歩き回ったときのプランです。

   ○ 赤数字は利用する予定の電車やバスなどの発車時刻と到着時刻であり、黒数字は利用
      可能な他の便の時刻です。予めこうしておくことで臨機応変の対応が容易にできるのです。
   ○ 山岳地帯を旅するときは、高さの表記が気温の予測その他にも役立ちます。

   ○ 荷物の処理や食事の用意なども忘れることのないよう書いておきます。



  
    
国内の旅の際には、概ね次のような手順で準備を整えています。           

   ○ 旅の目的地と経路がほぼ決まった段階で、利用する列車やバスなどの候補をいくつか挙げ
      てみます。ここではもちろん
JTB時刻表が大活躍します。
   ○ ホテルの選定は、主として「旅の窓口」サイトで行います。立地条件、アクセス、設備等を確
      認し、特に翌日の行動への利便性を重視して選びます。
   ○ 列車については、天候の見通しが立つ時点まで選定を待ちます。ただし、混雑が予想される
      場合は早めに指定券を確保します。一応”高齢者”なので、座席の確保が不確実な自由席
      は敬遠することにしています。
   ○ 列車の空席情報は、
JRサイバーステーションのサイトで毎日把握し、その空席状況に応じて
      指定券の購入に踏み切ります。
   ○ バスの運行時刻は
JTBの時刻表で調べますが、なるべくバス会社のHPで再確認します。
     
HPがない場合は電話で確かめます。地方のバスは本数が少なく、確認を怠ると旅に致命
      的な支障が起きがちなので、それを避けるためにはこれが不可欠です。



このようにして作り上げたプランは、旅行業者に全てを任せた場合のような
他人から与えられるものとは根本的に違います。全てを自分自身の興味・関心や行動スタイルに基づいて組み立てるため、天候などの条件にさえ恵まれれば満足度は100%に限りなく近づきます。自分にとって無意味な時間を費やすことがないからです。

個人旅行はグループツアーに比べれば確かに費用は高めになりますが、それは「
旅の満足度を高めるためのコストにほかならず、決して無駄ではないというのが私の考え方です。

また、短時間に多くの場所を回るのがよい旅とは思いません。それより、
精選した所だけをじっくり時間をかけて訪れる方がずっと意味があるように思います。

迷惑な言動やいらぬ束縛に煩わされず
(心身ともに自由に)過ごせるひとり旅は、全身で自然の懐に飛び込みたい私にとっては最良の旅のスタイルなのです。

若く体力のあるうちは、事前の準備なしに気の向くままスマホ片手の気ままな旅も楽しいことは確かです。でも、無理をすれば必ず何かの形で支障が出る年齢になると、やはり周到な準備をする必要があります。私は、これからも可能な間はこの方式で自己流の旅を続けます。

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私の人生を支えてきた山と音楽

私の人生もいよいよ終盤にさしかかっているのはまぎれもない事実ですが、この期に及んでもなおかつ前向きの姿勢を保っていられるのは思い出の中にその源があるからです。世間ではひたすら前だけ見て突き進むのが立派な生き方だと思われがちですが、決してそうではないと思います。若いときは失敗を怖れない猪突猛進が必要な時期もありますが、人生経験が増した段階では過去の経験の蓄積から学ぶことも大切になります。歴史を無視してならないのは國でも個人でも変わらないのです。

戦前から戦中、更に戦後にわたる国家体制や社会状況の激変の中で生きた経験は自己紹介にも少しだけ書いた通り異常極まるものであり、潔癖で神経の細かい私にとってはこの上なく残酷なものだったことは間違いありません。そうした私に大きな勇気と喜びを与えてくれた山と音楽は何ものにも代え難い伴侶と言うべき存在であり、ここに特記することとしました。、

 山、この畏敬すべき大自然の創造物!


私は、決して大きなリュックを背に何日も山にこもったり、アルプスの深奥部を徘徊したりするような本物の山男ではなく、本格的な山行の回数は微々たるものでしたが、山を愛する気持ちは今でもプロやセミプロの人々にも負けないつもりです。私にとって山はいわば心のふるさとであり、かけがえのない宝なのです。高齢になってからは実際に登ることができない場合も多くなりましたが、ただ眺めるだけでも、写真やDVDで間接的に触れるだけでも、それだけで胸が熱くなるという文字通り”恋人”のような存在です。幸い最近までは心臓も強く健脚なので適当な山を選んでは出掛けていました。ただし、決して急がずゆっくりとマイペースで登り、下山のときは登りよりずっと慎重に十分足場を見極めながら下るようにしました。捻挫などのような事故を防ぐだけでなくその方が自然の繊細な部分にまで接することができるからです。もちろん状況に応じて引き返す勇気も持ち合わせていました。

一旦山に入るとさすがの私のような偏屈者もたちまち素直になり敬虔な気持ちになります。山の霊気がそうさせるのでしょうが、昔からの山岳信仰の源もこのあたりにあるような気がします。残念なことは、
登山ブームが山の怖さやマナーを知らぬ人々までも山に引き寄せ、山歩きの基本を忘れて他人を危険にさらしたり、貴重な高山植物を痛めつけたり、時ならぬ姦しい騒音で人々の心をかき乱したりなど、自然愛好者にはあるまじき残念な行動が目立ってきました。大衆化の代償として仕方ないのかも知れませんが、静寂の中で山と対面することを望んで訪れる人々には残酷な仕打ち以外の何ものでもありません。

80歳を過ぎてからはやはり体力の衰えもあり、低山を除けば麓から登るのはきつ過ぎるようになりました。以後は専ら「ニセ登山」を楽しんだものです。つまり、途中まではロープウェイなどの公共交通機関を利用し、そこから先を自分の脚で登るのです。私の場合は山の雰囲気を味わうのが主目的なのでそれで十分なのです。

長年様々な悩みや苦しみに耐えながら生きてきた私にとって、
山や高原を歩くのは単なる趣味の域を超えるものでした。日頃の生活の中で積もり積もったストレスをたとえ数時間〜数日の間でも忘れさせてくれるのが山歩きであり、そうした意味で山は私にとっては文字通りの救世主と言っても過言ではなかったのです。

ごく僅かな山行ですが、特に印象の深かった山行の中からいくつかを抜き出して書いてみます。

 想い出の山行  

登山を始めたのは
30歳前後で、最初に登った山らしい山は三ツ峠山でした。職場の仲間との集団登山でしたが、初めて接する岩場や早朝の富士の姿を目にすることで、登山の楽しさにはまってしまったようです。若さにはつきものの無鉄砲さもあり、この後いきなり単独でアルペン的風貌の南八ヶ岳連峰の縦走に挑戦することを考え始めました。これが私にとって初めての高山への挑戦だったのです。

南八ヶ岳連峰縦走 (日時は不明だが、多分1964の8)
      ※ 写真はありませんが、ルート図と展望図が「
8mm再生」ページの最下段に掲載してあります。
ルートは、甲斐大泉〜三ッ頭山〜権現岳〜キレット小屋(泊)〜赤岳〜横岳〜硫黄岳〜本沢温泉
    〜稲子湯〜松原湖


最も一般的な編笠山からの登山道は相当の混雑が予想されるためこのルートを選んだのですが、一見して初心者には困難なルートです。でも、「盲、蛇に怖じず」のことわざ通り、権現岳まで
1500mの標高差を
時間ほどかけて登り切りました。途中出会った登山者は下っていく熊本の人だけでしたから、よく無事だったと思います。準備だけは一応整え、国土地理院の地図から自作した高低図でペースを変えるなど工夫はしていました。権現岳と赤岳の間の鞍部にあるキレット小屋に泊まった翌朝ガレ場を越えて快晴の主峰赤岳の2899mの頂上に立ち、そこから遙かな北アルプスを望んだときの言葉では表現できない深い感動が、私を山のとりこにしたことは確かです。ついでですが、当時の山小屋はホテル並みの現在の施設とは雲泥の差で、やっと雨風を凌ぐことができるだけのものでした。赤岳頂上での感動の余韻にひたりながら足元の岩の隙間から1000m下がのぞける高所恐怖症には禁物の横岳を経て、爆裂火口の広がる硫黄岳で小休止のあと本沢温泉経由でひたすら下山した訳ですが、夕闇の迫る暗い森の中をたった独りで歩く間ずっと耳に聞こえるのは落ち葉を踏む自分の足音だけでした。やたらにクマが出没する今ではもうこんなことは危険でできないでしょう。このように八ヶ岳は私の山歩きの原点で眺めるたびにひどく懐かしく思われるのです。

以後は当然のように
北アルプスへと気持ちがはやり、ちょうど当時在籍した職場で良い仲間を得たこともあって仕事の合間を縫っては山に出掛けました。もちろん当時は夜行列車で、
山好きにはおなじみだった新宿発23:55の夜行列車(通称ニイサンゴーゴー)もしばしば利用したものです。春の連休には足慣らしに南アルプスの前衛である夜叉神峠に登って雪を戴いた白峰三山を眺めるのが恒例となり、夏は北アルプスを目指すようになりました。

谷川連峰縦走 (1965.8.16〜8.17)

ルートは、水上(泊)〜土合〜西黒尾根〜トマの耳〜オキの耳〜一ノ倉岳〜茂倉岳〜茂倉新道〜土樽

谷川岳は比較的近いにもかかわらずアルペン的な気分が味わえるため度々訪れましたが、これは初めて縦走したときの記録です。頂上への代表的なルートである西黒尾根ではかなりのエネルギーを費やしますが、そのあと二つのピークであるトマの耳、オキの耳経由で岩峰が続く一の倉岳を通過し茂倉岳に着くと、それまでとは一変する広い草原にホッとします。このルートはこのように変化に富んでいる楽しさがあるのですが、残念なことに上越新幹線が開通してからは在来線がひどく不便になり土樽に停車する列車が2,3時間に1本に減ったため、もうこのような縦走は不可能になってしまいました。。まだ日曜日しか休みでなかった当時でも、土曜の夜行列車で土合に
3時頃着きその後縦走して日曜の夜遅くに帰宅しても、翌日からの6日間の勤務が何でもありませんでした。むしろ普段より調子が良かったくらいです。まだ30
後半の若さでしたから当然と言えば当然かも知れません。

北アルプス表銀座縦走 (1966.8.1〜8.5)

ルートは、有明〜中房温泉〜合戦尾根〜燕山荘(泊)〜燕岳〜蛙(ゲーロ)岩〜(喜作新道)
    〜大天井(オテンショウ)岳〜西岳〜水俣乗越〜東鎌尾根〜槍ヶ岳山荘(泊)〜槍ヶ岳頂上
    〜槍沢〜横尾〜徳沢〜明神(泊)〜上高地〜大正池〜上高地〜新島々〜松本


北アルプスへの初挑戦はやはりアルプス銀座
でした。想像を遙かに超えるきびしい合戦尾根の時間にわたる苦しい登りに耐えて燕山荘近くの尾根に出たときは、比較的天候に恵まれてもいたため槍ヶ岳を始めとする北アルプス独特の景観に衝撃的な感動を覚え、大自然に対する畏敬の念が一層深く私の心に刻み付けられました。燕山荘で一夜を明かしたのちの稜線歩きは、天上沢から吹き上げる涼風に身を任せながら、ずっと姿を見せてくれる槍ヶ岳とそれに続く鋭い北鎌尾根に感嘆したり、大天井岳の高山植物群落に目を見張るなど楽しく時間が過ぎたのです。しかし、西岳からの鉄ばしごによる急降下に続き岩ゴロゴロの東鎌尾根ではそのきびしさに足取りも重くなり、薄暗くなりかける中を槍ヶ岳山荘に着いたときはかなりの疲労を感じていました。それにもかかわらず、翌朝早くくさりや梯子で槍ヶ岳の頂上に登ったとき、雲海を見下ろしながらの
360度の展望は本当に素晴らしいものでした。遠く見える八ヶ岳のシルエットに特別な懐かしさを感じたのはもちろんです。山から下るのはいつも嬉しいものではありませんが、夏の槍沢から明神までの緩やかだが長い下りは見晴らしのほとんどない梓川沿いの単調な道で、槍沢の突端の雪融け水の冷たさが唯一の救いでした。決していわゆる”山男”ではない私なので10時間近くかかったような気がします。こうして初めての北アルプス登山が終わりました。

白馬連峰縦走 (1967.8.1〜8.5)

ルートは、信濃四ッ谷(現白馬)〜八方(泊)〜八方尾根〜八方池〜唐松岳頂上山荘(泊)
    〜不帰(カエラズ)の嶮〜天狗ノ頭〜白馬鑓ヶ岳〜杓子岳〜白馬山荘(泊)〜白馬本峰
    〜三国境〜小蓮華山〜白馬大池〜乗鞍岳〜栂池〜信濃森上


アルプス銀座の次に狙ったのがこの白馬(シロウマ)連峰ですが、有名な大雪渓ルートを取らなかったのは、このルートに並ぶ峰々の特徴が際だっている上、稜線歩きをしながら存分に剣岳を眺められるからです。八方尾根も山上湖の八方池を過ぎると急傾斜になりますが、アルプス銀座の合戦尾根と比較すればずっと楽です。すし詰め状態の唐松岳頂上小屋を出て間もなくの不帰の嶮はカニの横這いや岩壁の急降下がある北アルプスでも指折りの難所ですが、無我夢中だったせいか気が付いたときは無事に通過していました。数年前に岩茸山から眺めたときは「よくあんな所を何事もなく通過できたものだ」と思ったものです。不帰の嶮の通過後は快晴の中を高山植物や雷鳥との出会いを楽しみながらのんびりと歩き、巨大な白馬山荘に入るまで延々10時間かかりました。途中で遠くに雷雲が見えるようになり急ぎ足になったものの、長距離ルートに挑戦したご褒美にずっと並行する立山連峰の姿を眺めることができ、特に岩の殿堂剣岳が少しずつ姿を変えながら見事なピラミッド型になるまで顔を見せてくれたのは、本当に嬉しいことでした。また、早朝の白馬本峰から見た日本海に湧き立つ沢山の雲の柱や信州側に沈んだじゅうたんを思わせる雲海も印象的でした。三国境の手前の小さな雪原で遊び白馬大池のほとりで食事を済ませてから乗鞍岳を経て下山に取りかかったのですが、大きな岩が積み重なった上伸びきった夏草で風も通らず予想外に辛かったことを覚えています。下山後の神の田圃で振り返ったとき目に映った雷雲のまとわりついた白馬連峰の姿がひどく遠いものに感じられました。当時はまだ栂池自然園はなく、乗鞍岳から信濃森上駅まで二本の脚だけが頼りだったのです。


穂高連峰縦走 (1968.7.30〜8.3)

ルートは、上高地(泊)〜明神〜横尾〜本谷橋〜涸沢ヒュッテ(泊)〜北穂高岳南稜〜北穂高岳
    〜涸沢岳〜穂高岳山荘(泊)〜奥穂高岳〜吊り尾根〜前穂高岳〜重太郎新道
    〜岳沢ヒュッテ〜上高地


秋の紅葉が素晴らしい涸沢から見たパノラマ通りの穂高連峰縦走です。上高地から横尾までは梓川沿いの森の中を辿る緩やかな道ですが、横尾を過ぎると徐々に傾斜が増し屏風岩を迂回してようやく涸沢ヒュッテに到着しました。翌日は色とりどりのテントが並ぶ通称涸沢団地を横目に見ながら南稜に取り付き、かなりの消耗を強いられたものの何とか北穂高岳に着き更に宿泊予定の穂高岳山荘へと向かったのですが、涸沢岳付近で霧雨に見舞われ滝谷側に傾斜した滑り易い縦走路に肝を冷やしながらやっとの思いで通過したのです。早朝の奥穂高岳への登りはさほどきつさも感じないまま頂上に辿り着き、北アルプス最高所からの眺めを楽しむことができました。
21年後に訪れたノルウェーでのスタルハイムからの眺めがここからの上高地の眺めによく似ていて、錯覚を起こしそうになったこともありました。奥穂高岳から前穂高岳までの吊り尾根は特に危険もなく順調に通過できたのですが、その後の下りがラクダのコブの連続でひどく苦労させられたことは今でも鮮明に覚えています。涸沢カールから憧れの穂高の峰々を初めて仰ぎ見たときの感激、奥穂高の頂上から周囲の山々や上高地を見下ろしたときの深い満足感など、
50年以上経った今なお甦ってきます。

立山連峰縦走 
(1976.8.23〜8.26)、(1988.8)

ルートは、扇沢〜黒部ダム〜黒部平〜雷殿〜東一の越〜一の越山荘(泊)〜雄山〜大汝山
    〜富士の折立〜真砂岳〜剣御前小屋〜雷鳥沢〜みどりが池〜みくりが池〜室堂


現在は閉鎖されてしまったようですが、立山トンネルの途中の雷殿でトロリーバスを降り、そこから一の越山荘まで草つきの斜面を
2時間ほど登ると、もう立山の稜線です。一の越山荘に泊後の早朝の尾根歩きはとても爽快で日頃の苦労などどこかに吹き飛んでしまいそうでした。雄山の頂上に祠がありそこを通らないと先に進めないのは神仏にかなり抵抗のある私にはちょっと嫌な気分でしたが、そこからは雲はあるものの快適な縦走路で、山上のコーヒータイムなども楽しいものでした。最後に室堂平に下りバスとケーブル、電車を乗り継いで富山に出たあと銭湯で汗を流して帰りました。このルートは、12年後に職場の若い同僚と再度訪れましたが、そのときはもう
mm撮影機からフィルムカメラに切り替えていたため、普通の写真でホームページにも掲載しています。


 『8mmフィルムからの写真作成に成功!

上に書いたように、これらの山行では専ら当時の最新機器であった8mm撮影機を持参したのです。かなりかさばる上に結構重く、フィルム交換もブラックバッグの中で手探りで行う代物でした。筋骨隆々とは無縁の非力であるためとても別にカメラまで持つ余裕はありません。これが今になってみると大失敗で写真が全くないのです。20本近くある山行の記録フィルムの中で必要な部分はほんの一部であるのに、全てをカメラ店で写真にしてもらうと数十万円もかかると知り、自分で何とかしたいと常々考えてきました。色々と考え工夫した結果、8mm映写機にかけたフィルムを適当に見当を付けて数十回止めては切り取り、フィルムスキャナーを使ってそれらの画像を取り込み更にPhotoshop Elementsで加工することで写真にしてみようと工夫した結果何とか見られるものが出来上がりました。色彩の劣化はもちろん、小指の爪程度の細かいフィルムをかなりの倍率で拡大するため、不鮮明な画像になるのはやむを得ません。それでも、写真が全くないのと比べれば雲泥の差です。2005月以降はこの方法による画像を展示しています。


  音楽、この素晴らしい人類の創造物!


私が特に強い関心を持っているのは主としてクラシック音楽です。ヴァイオリンやピアノのソロ、それに交響曲も好きでしたが、最近は協奏曲や小編成の室内楽に興味が移っています。特にバッハとショパンの音楽には強く惹かれています。クラシック以外でも色々ありますが、心の安らぎを感じさせてくれるようなポピュラーやフォークなど、それにラテン、シャンソンなども大好きです。ピアノも全くの独学ですが、初見には結構強いので何とか楽しむことができます。

最近まではアップライトピアノを弾いていたのですが、住宅地のため周辺への気兼ねがあり中々長時間楽しむことはできませんでした。それに、弾くことのできる時間が細切れ状態ではどうしても一つ一つの曲に集中する訳にはいかず、色々なジャンルの曲を片っ端から弾きまくるようになりがちです。当然、自分で納得のできるような仕上がりにはなりません。

そこで、最近古くなったピアノを処分して電子ピアノに買い替えました。初期のものとは違いかなり機能が充実しているため、ほぼピアノと同じ感触で弾くことができます。色々な音色での表現も可能なので、例えばバッハの曲をハープシコードで表現できるなどの楽しみもあります。ワンタッチでの録音もでき、何よりも、ヘッドホーンを使えば「いつでも、弾きたいときに弾ける」点が最大の利点です。これで、一曲ずつを十分な時間をかけて仕上げていくことができるようになりました。

 『音楽との関わり』

私の音楽に対する興味傾向は決して”通”のようなものではなく、ごくありふれた曲に限られています。以下、作曲家ごとに、好きな曲をいくつか挙げてみます。

J.S. バッハ ……ヴァイオリン協奏曲番・番、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲番 ・番、
           トッカータとフーガ
ヴィヴァルディ……ヴァイオリン協奏曲
1番〜番、和声と創意への試み(含む「四季」)、調和の幻想
ベートーヴェン交響曲番「英雄」、交響曲番「運命」、交響曲番「田園」ピアノ協奏曲番「皇帝」、
           ピアノ協奏曲
番〜番、ロマンス1番・2 ピアノソナタ番「悲愴」
           ヴァイオリン協奏曲ニ長調
ヴァイオリンソナタ
モーツァルト…… 交響曲
40番・41番(ジュピター)、ヴァイオリン協奏曲番〜番、
           ピアノ協奏曲
26番「戴冠式」、クラリネット協奏曲イ長調、
           セレナード
13番「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、ピアノソナタいくつか
.ショパン………ピアノ協奏曲・2番、どのピアノ曲も好きだが強いて順序を付ければ先ず ノクターン、
           次にバラード、プレリュード、あとはワルツ、マズルカ、ポロネーズとなります。ショパンの曲は
           バッハとは違った意味で私の感性に合っています。
シューベルト…… 交響曲
番「未完成」、ピアノ五重奏曲「ます」、「楽興の時」などのピアノ曲、
           歌曲集の「白鳥の歌」、「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調、ピアノ協奏曲

チャイコフスキー  ピアノ協奏曲
番、バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」など
ヨハン・シュトラウス…「美しく青きドナウ」「芸術家の生涯」などのワルツ、「アンネン・ポルカ」などのポルカ、
          「こうもり」などの序曲

その他、スメタナの交響詩「我が祖国」、グリークのペールギュント組曲、ビゼーの組曲「カルメン」と 「アルルの女」、サン・サーンスやパガニーニのヴァイオリン協奏曲、 ドボルザークの「スラヴ舞曲集」などもお気に入りの曲です。

また、小曲の中で気に入っているものを挙げてみると、次のようになります。

クライスラーの「美しきロスマリン」「愛の喜び」「愛の悲しみ」「ロンディーノ」などのヴァイオリン曲、サン・サーンスのヴァイオリン曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」のヴァイオリンによる演奏 「カヴァレリア・ルスティカーナ」「聖母の宝石」「タイスの瞑想曲」「マドンナの宝石」「女学生」 「スケーター・ワルツ」「ラ・カンパネラ」「ペルシアの市場にて」「牧神の午後への前奏曲」など

このように、クラシックと言っても興味の対象がかなり偏っているのが私です。例を挙げれば、有名な作曲家でありながら、ブラームスやマーラー、ムゾルグスキー、ショスタコーヴィッチ、パルトーク、ヘンデル、ハイドンなどはこの中に出てきません。どういう訳か感覚的に合わないのです。

カラヤンのベルリン・フィル、バーンスタインやベームのウィーン・フィル、マゼールのロンドン交響楽団、セルのクリーブランド管弦楽団、フィドラーのボストン・ポップス・オーケストラ、ストコフスキーのチェコ・フィル、リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団などがお気に入りで、音楽会に出掛けるのが難しくなり代わりに
CDを大量に買い込んだときも演奏者と指揮者、録音日などを見て選びました。最近も眠る前に時間ほどCDで音楽を聴くのが恒例になっています。

また、イ・ムジチ合奏団による「四季」は毎年欠かさず聴いていましたし、年末のウィーン・フィルによるニュー・イヤー・コンサートの衛星中継も楽しみの一つになっています。

ギーゼキングやホロヴィッツのピアノ、ハイフェッツやミッシャ・エルマンのヴァイオリンも遠い昔になりました。
           

クラシック以外で興味を惹かれる曲
を挙げてみます。うまく分類するのが難しいものは曲名を並べるだけにしました。若い人々にはなじみがないものが多いと思います。
           

各国の民謡……バイカル湖のほとり、二つのギター、ともしび、帰れソレントへ、カタリ・カタリ、マリア・マリ、
           シェリト・リンドなど

シャンソン……… 枯葉、パダム・パダム、セ・シ・ボン、フル・フル、私の心はヴァイオリン、ラ・メール、
           パリの空の下など
タンゴ……… 碧空、真珠採りのタンゴ、ヴィオレッタに捧げし歌、ジェラシー、カミニート、ラ・クンパルシータ、
           淡き光に、エル・チョクロ、エル・クンバンチェロなど
その他……… 雪が降る、サン・トワ・マミー、涙のトッカータ、シバの女王、ある愛の詩、追憶、
          エーゲ海の真珠、オリーヴの首飾り、白い恋人たち、イェスタディ、マイウェイ、ブラジル、
          アマポーラ、ある恋の物語、マラゲーニャ、 シェルブールの雨傘、イン・ザ・ムード、
          秋のささやき、ライムライト、エストレリータ、スターダスト、二人の天使、ひまわり、風のささやき、
          黒いオルフェ、サウンド・オブ・ミュージック、禁じられた遊び、鉄道員など
60年代フォーク……遠くへ行きたい、見上げてごらん夜の星を、学生時代、四季の歌、若者たち、風、
          竹田の子守歌、ふれあい、帰らざる日々、白いギター

ポール・モーリアやレイ・フランシスの手になる曲が私にはピッタリとくるようです。シャンソンはイヴ・モンタン、タンゴはアルフレッド・ハウゼ、合唱はウィーン少年合唱団や木の十字架合唱団です。また以前のように音楽会にも出掛けたいのですが、朝型で深夜に弱いため帰りが深夜近くなることを考えると中々難しいです。

中学生時代は重音のハーモニカやアコーディオンが得意でした。やっとピアノを弾き始めたのは
20歳くらいからで、最初は耳で覚えたメロディを適当に鍵盤上で再生して楽しんでいました。しかし次第にそれでは物足りなくなり、適当な和音を伴奏に使うようになったのです。更に楽典を参考にしながらバイエルから練習を始め、ソナチネ、ソナタと自己流ながら進めました。と言っても、現在のようにピアノ教室などがある訳ではなく、音楽が好きだからこそ続けられたことは確かです。楽譜を次々に買い込んで弾いているうちに定番のピアノ曲だけでは何となく物足りなくなり、ヴァイオリン曲や交響曲を編曲したピアノ用の楽譜を探したり、ビートルズ、映画音楽、フォークなどの楽譜 (適度に手応えのある編曲のもの)を探すなどしました。ところが市販している楽譜はほとんどが子どもの練習用だったため、大人用のものを見つけるのはかなり大変でした。

こうして、私のピアノ技術は一応は身につきましたが、もちろん正式に習った人とは比較になりません。ポピュラー曲はともかく、クラシックの難しい曲は音符が飛んだり強弱が狂ったりは”朝飯前”でとても人に聴かせられる段階ではありません。しかし、たとえ本来の楽譜通りに弾けなくても、弾いている間はそれに没頭できますし、それで十分だと思っています。親の見栄の犠牲になった訳でもなく
自らの意志で、また自らの力でやり遂げたのですから。生まれたときから豊かさに囲まれて暮らしている人々から見ればバカなことをしてきたように思うかも知れませんが、どん底の時代から立ち上がってきた人間の一人である私にとって、好きな音楽を自分なりに表現できることは貴重な財産なのです。素晴らしいテクニックを持ちながら心の貧しい一部のプロピアニストよりも、たどたどしい演奏でも音楽が好きでたまらない人間の方が遙かに存在価値から言えば上だと勝手に思うことにしています。
      
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私のホームページ作り (ホームページを作ったきっかけと、その後の経過)

私がこの
ホームページを作ろうと思ったきっかけは若い友人の何気ない一言でした。私は1994年頃から旅行プランを自力で作るのが当たり前になっていましたが、あるとき偶然スイス旅行の細密なプランを彼女に見せたのです。そのときに彼女が口にしたのが「このようなプランの立て方は滅多にないので、大勢の人々にも知ってもらう方がいいですね?」という言葉だったのです。そのときはさほど気にも留めなかったのですが何年かののちに突然これが頭に浮かび、そのためにはどうしたらいいかを考えるようになりました。

そこで思い付いたのがホームページですが、旅行プランだけではあまり意味がないので、いっそ旅行写真を公開しようということになりました。以前から写真だけはきちんと整理してあったので、何とかできそうに思えたのです。ただ、
このとき既に72歳で、本式にプログラム言語などを身につけてからサイトを作るのではあまりにも遅くなってしまいます。

幸運なことに、この頃ちょうどホームページビルダーが発売され、「よし、ひとつこれを使ってホームページを作ってみよう」ということになりました。
「何でも他人に頼らず自力で・・・ 」が私の流儀でもあり、マニュアルと首っ引きでページ作りに励みました。その甲斐あって、200416日に初めてのサイトをアップすることができたのです。ほんの15枚のサムネイル画像だけなのでとてもお話しにもなりませんが、自分の作ったページがインターネット上に載り、それを大げさに言えば全世界の人々が見ることができるという事実には正直興奮を覚えました。

回を重ねるごとにサイトを構成するページが増え、掲載する内容も海外旅行の写真だけだったのが国内旅行の写真も加えるなど、ホームページビルダーへの慣れもあって順調にサイトの充実を進めてきました。途中でしばらくの間外国人向けに英語ページも作ったのですが、これは失敗でした。諸外国からの怪しげなメールが激増したのです。結局、
未練はあったものの英語ページは年間ほどで閉じてしまいました。

お気づきでしょうが、
私のサイトにはCMが全くありません。あるのは検索サイトと素材等でお世話になっているサイトのバナーだけです。山、旅、鉄道、写真をメインに作ってあるのが私のサイトなので、その雰囲気を壊してしまうCMは絶対に入れたくないのです。私のCM嫌いは昔からのものですがとにかく徹底しているのです。今では番組の前後に限らず途中でものべつ入るのが当たり前になっているTVコマーシャルは、一つの番組を通してきちんと見せるべき本来の使命に背くものだと思っています。耳障りなCMから多少でも解放されるように、関心の深い番組は事前に録画しておいてからCM部分だけを早送りしながら見ることにしています。特に保存しておきたい番組の場合は一旦録画しておいてCMを削除してからDVDにコピーしておきます。

少し脇道にそれてしまいましたが、こうして作られた私のサイトには普通のサイトとは違う点がいくつかあります。
2004月にホームページを立ち上げてから2007年末まではヶ月半毎、2008年から2015月までは毎月日に更新してきました。数千枚の写真を一度には掲載できないので、回に分けて掲載したからです。プロバイダーが変わってディスク容量が大幅に拡大し一度に掲載できる写真の枚数が飛躍的に多くなってからは、閲覧期間を延ばす必要からヶ月毎の更新にしました。これまでの百数十回にのぼる更新の都度、少しでも良いサイトにできないかをいつも意識して改善に意を尽くしてきた結果、何とか見られるものになったのです。私にとってホームページの運営もいつからか生き甲斐の一つになり、「頭上にリングが浮かぶ」まではこのサイトを少しでもよいものにしていく努力を続けていくつもりでした。

ところが、残念なことに
5年近く利用してきたプロバイダーのBizメール&ウェブがサービスを取りやめることになったため、やむを得ず2019年12月15日でHPの掲載を諦めました。しかし、幸いなことに私の目的に合致するサービスを提供する新しいプロバイダーが間もなく見つかり、2020年3月からHPの掲載を再開したのです。ただ、年齢的にいつ消滅しても不思議ではない訳なので、過去のように絶えず大幅な入れ替えをするタイプではなく、必要に応じての部分修正で済むよう全ての内容が盛られたサイトを作成することにしました。ただ、以前とは全く異なる方式にするにはかなりの日数がかかりました。コロナのおかげで外出もままならず、この作業が幾分かは慰めになったかも知れません。

 
  多くのサイトに接して気付いたこと

色々なサイトを閲覧すると参考になる点も多くあることは確かです。その反面、必ずしも見やすく構成されているとは言えないサイトもあります。また、
CMだらけで主題が何かが分からない状態になっているものもあります。突然にサイトが見られなくなることもありますが、このようなときは、URLが変更になったのか、それとも管理者がサイトを閉じたのか分かりません。

私がずっと利用してきた
OCNPageON(ホームページ掲載サービス)が2015月で終了になるため、プロバイダーをBizメール&ウェブに変更した結果、当然のこととして私のサイトのURLが変わりました。そこで、検索サイトと相互リンク先へその旨を連絡したのです。検索サイトのYahooはすぐにURLを変更してくれました。ところが、相互リンク先については様々な問題が見えてきたのです。

URLの書き換え依頼メール(メールがないサイトには掲示板で)は、月上旬にそれまで相互リンクを結んでいた68サイトに送りました。しかし、それからのヶ月間に書き換えてもらえたのは24サイトだけです。現役の人々の多忙さももちろん大きな理由だと思いますが、他にも見えてきたことがあります。一つは更新回数が少なくメール(掲示板も)に目を通す機会がない場合です。中には最後の更新が年以上も前のままのサイトもありました。また、メールアドレスが変わったのか連絡のしようがないサイトもいくつかあり、この場合は諦めるしかありません。リンク集があるはずなのにクリックしても表示されないサイトや、とてもきちんと作られたサイトなのに「リンク集」と書いてありながらそこへのリンクがされていないサイトもありました。

これらの現象の底流になっているのではと思われるのは、
「自分の作ったサイトに対する関心(注意)」が薄れているのではないかということです。どんなに簡単なサイトでも、一旦インターネットに上げればそれを不特定多数の人々が見る訳でいつも責任を持てる状態に保つことが大切だと思うのですが、間違っているでしょうか?今やスマホ全盛の時代になり人々の関心がそちらに移っているようにも見えますが、パソコンにはそれなりの長所もあるのです。自分のサイトには責任を持ちたいものだと思います。
 
 
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私が生きてきた時代 (戦前・戦中・戦後)

戦後75年を過ぎた今、あの戦争が日本にどのような影響をもたらし戦後の日本が戦前や戦中と比べてどう変わったかを知っているのは、実際にその時代を生きて戦争を肌で体験した
80代後半以上の人間だけになってしまいました。敗戦を境にそれまでの國のシステムの大半が占領軍の命令によって強制的に変更され、それまでの日本に存在したものは根こそぎ捨て去られたのです。敗戦後の混乱の中では、捨て去るべきものと残しておくべきものを取捨選択する余裕など、最低限必要な食料さえ手に入れるのが容易ではない厳しい日々を生き延びるのに精一杯の当時の人々にはとてもなかったのでやむを得ないことだったかも知れませんが、その結果、それまでの(一般の)日本人の生き方の全てが否定され、自然との調和を大切につつましく生きる中で育まれてきた多くの美点までも、そのほとんどが価値いかんにかかわらずエイッとばかり惜しげもなく捨て去られてしまったのです。そして、私の目には必ずしももろ手を挙げて歓迎できるとは思えないモノカネ第一のアメリカ風の生き方をひたすら追い求めることが、多くの日本人の目標とされるようになってしまいました。

戦前の日本は軍備に国家予算の過半を費やして世界の列強に伍することを最大の目標としていました。そのため、一般国民の生活水準は特権階級を含む豊かな一部の人々を除けば決して高くはなく、文明国の中ではどちらかと言えば低い方に属していたように思います。当時の世界で図抜けて豊かだったアメリカと比較すれば文字通り天地の差と言っても過言ではありません。明治維新までの長い鎖国で後れを取った欧米各国に追いつこうと焦った日本は、以後の
國造りの基本を天皇を中心とする「忠君愛国」を精神的支柱とした「富国強兵」政策に求めました。そうした最終段階で、政治への影響力を強めたのち遂に政権を手にした軍部(特に国際事情に疎い陸軍)が、バランス感覚を失って暴走したあげくあの無謀な戦争に突入した時期に、ちょうど私の一度きりの人生が重なってしまったのです。多少の浮き沈みはあっても普通に考えられる生活を送ってこられた戦後生まれの人々に理解してもらうのはかなり難しいことですが、一度きりしかない貴重な人生をこうして根底から覆されてしまった私は、プロフィルにもある通りこのような国家の手になる重大犯罪に対する怒りが収まらず、ずっとその思いを胸にたぎらせて現在までの日々を送ってきたとさえ言えるのです。

戦禍で都市は至る所が廃墟と化し美しい山野に覆われていた日本が見る影もなくなってしまったのち、生活苦に喘ぎながら懸命に働いて復興に汗を流したのは私たちの世代ですが、このことは今ではほぼ完全に忘れられています。高度経済成長の立役者となったいわゆる団塊の世代が活躍できるための基礎工事をしたのが私たちの世代であるのにもかかわらず、ほとんど評価されないという空しい立場なのです。竹中氏をはじめとするアメリカかぶれの経済学者は、絶えず「高齢者の増加が高額の医療費や年金など社会保障費を押し上げて国の経済を圧迫し、現役世代や若年層に大きな負担をかけている」と私たちの世代を標的に攻撃(口撃)55年体制下で繰り返されたその場凌ぎのばらまきや箱物行政など、未来への予見を欠いた選挙目当ての政治が本当の原因であることへの責任には全く言及しなかったのです。昨今大きな問題になっている少子化も、そしてもちろん高齢化もとうに予想できた筈なのに、長期の対策をきちんと立てずに、ひたすら自分たちの内輪もめや金脈探しにうつつを抜かしてきたのが自民党でした。こうしてstatesman (本物の政治家)ならぬ politician (党利党略に長け私利私欲を追求する“政治屋”)は、自分たちの政治の失敗を世代間の対立という構図に見事なまでに転嫁してしまいました。彼らの本心を推測すれば、私たちのような国の経済に貢献せずやたらカネを食う厄介者は、絶滅危惧種とは正反対の「絶滅期待種」なのでしょう。このように長年働いて社会を支えてきた人間を粗末に扱う「恩知らず社会」と化してしまったのはとても悲しいことです。皮肉なことですが、少し前までは日本社会を支える大黒柱としてもてはやされていたいわゆる“団塊世代”も、今では年金や医療で国の財政を苦しめる厄介者として扱われているようです。このように目先の経済のことにしか関心のない自民党政権に全権を委任しているのは他ならぬ国民なのです。
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