21年9月の怪我に始まる身体的な異変の連続もあって、この項を書くことが時間的にも難しくなってしまいました。
                  最近は国内外とも呆れるばかりの出来事が続出する状況で、正直付き合い切れないこともあります。
                             

 無名人の独り言

 

    このページには、私が日頃思うことを随時書きたいと思います。        
       ※  わざわざ「無名人」としたのは、有名人の言動にのみ過度に反応する世の風潮への大きな疑問からです。  
常時掲載 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々にに      73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  
78 民主主義が根付く気配の感じられないこの国 79 報道機関の水準低下と人間社会に及ぼす影響
80 21世紀の今、突然に訪れた「すぐそこにある戦争」 81 ウクライナ侵略での一般人への非道な振る舞い 
   
常時掲載 データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性……あまりにも大きな“副作用”をもたらした過度の便利さ追求  
   
                     メールコーナー (感想・意見をどうぞ) 



 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に   常時掲載)

ゲームや映画では見ていても
実際に戦争を経験していない人々には、私がなぜこれまでかつての安倍政権を非常に危険視してきたか中々分からないと思います。そこで、その理由をいくつか述べてみることにします。

  
これらの項目に是非注目を!!

 @ 
戦争は一般の国民が起こすのではなく、例外なく時の政府など権力者の主導によって引き起こされるのです。
 A 
戦争はいきなり起こるものではなく、必ずかすかな前兆から始まりそれが徐々に確かな形になっていくのです。
 B 
情報を隠したり積極的に人々に伝えようとしなくなるのは、やがて戦争へとつながる危険な兆候です。
 C 一旦
戦争が起きてしまえば人々は否応なく巻き込まれ、反対や抵抗は事実上不可能となります。
 D 
戦争で犠牲になるのは常に罪のない一般の国民で、自由は剥奪されて権力者の道具とされるのです。
 

このように書いても、
有り余る自由を手にした戦後の平和憲法下で戦争を身近に感じることなく生きてきた人々は、「まさか戦争なんて!」と一笑に付してしまうに違いありません。以前に繰り返された国会前での抗議集会には私も参加しましたが、デモ行進の沿道では「戦争なんて起こる筈がないのに何を大げさに騒いでいるんだ!」という態度の人が少なくありませんでした。国会周辺でデモ行進をしてもそれに共鳴する雰囲気はあまり感じられず、見方によっては冷ややかとも受け取れました。恐らく「日本はもう戦争なんかとは関係ないよ」という考えだったのでしょう。国際情勢への知識が少なく「平和な国日本」という幻想から抜け出せない「政治的な島国根性」のせいかと思われます。

しかし、多くの知識人や憲法学者、元自民党の有力者たちまでもがこぞって反対した強行採決による集団的自衛権容認を突破口とする
安倍一派のやり口には、太平洋戦争の経験者の目には戦前の日本を彷彿とさせるものがあったのです。国民の目と耳をふさいで物事の真実を知られないようにしておき、その裏でどんどんと戦争への道を進めていったのがあの当時軍部が事実上支配していた政権です。国の動きに少しでも疑問を抱く言動には厳しい統制と国家権力による迫害処罰が行われるため、一般の国民が声を挙げることなどは到底無理な時代だったのです。【全体主義の世の中は現在のような行き過ぎるほどの自由を手にしている世の中とは異次元の世界】であり、現在とはとても比較にならない厳しい環境を強いられた時代なのです。

現在はまだ形の上では民主主義の時代であり、人々はどんなことでも自由にものを言ったり書いたりできます。こうして政府や権力者の批判も自由にできます。何事でもそうですが、普段何の制約もなくできることはいつしか当たり前のように思ってしまい、それがどれほど恵まれ貴重なことなのか意識せずに過ぎてしまいがちです。中国やミャンマーを見ればそのことは分かると思います。

同じ「戦争」と言っても、
太平洋戦争は形の上では日本が自ら起こした戦争であるのに対し、私が今ここで強調したい「戦争」は「アメリカが将来起こす可能性の高い戦争に巻き込まれる形での戦争」です。広い意味ではもう既に「新しいタイプの戦争」であるテロ集団による攻撃の脅威に日本も巻き込まれているのです。コロナ禍の終息を夢見て開催された今回のオリンピックが無事だったのは、コロナ禍で人々が自由に国際間を往来できなかった幸運もあるでしょう。オウム真理教による地下鉄サリン事件でも分かるように、テロは攻撃する側が絶対的に有利な立場であり、いつ、どこで、どんな方法で実行するかはテロリスト側が自由に選ぶことができるのです。しかし、防御する側はいくら事前に対策を強化しても限界があり完全に防ぐことは不可能です。世界各地で起きてきたテロを見ればそのことは容易に理解できると思います。最近頻発する電車内での事件もそのことを証明しています。

更に
見過ごせないのは、経済的にも軍事的にも加速度的な膨張を続ける中国の動きです。「一つの中国」を声高に唱える中国が中々自由にできない台湾を虎視眈々と狙っていることは周知の事実ですが、それを阻んでいるのがアメリカの軍事力であることは明らかです。しかし、全てを思い通りにできる独裁体制の下で着々と軍備増強を進めてきた中国が、いつの日か台湾を力で支配しようと行動を起こさない保証はありません。万一それが現実となったときは、民主主義諸国中最も多くのアメリカ軍基地を抱えている日本が無事であるはずはないのです。現に、そのような場合は横須賀、横田や佐世保、沖縄などの米軍基地を直ちにミサイル攻撃する意向が中国にはあるとの情報もあります。つまり、日本国民の意向とは無関係に、否応なく日本は戦争に巻き込まれてしまうのです。もし核ミサイルでも使用されれば、狭い島国の行く末がどうなるかは言わずもがなです。

「まさか戦争にはならないだろう」という楽観的な見方に頼りたいのが人間の自然な心理に違いありませんが、そう言い切れないのは人間には時には理性を凌いでしまう“感情”という厄介なものがあるからです。やむことなく世界各地で繰り返されている殺し合いを見れば、そのことは明らかです。今回のウクライナ侵略はその典型と言えます。

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 73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  (22.4.6 追記

=安倍政権が手がけた暗黒政治への道=

7年8ヶ月続いた安倍政権が史上最長とかもてはやされていましたが、
「山高きが故に尊からず」と同様「任期長きが故に・・・」であり、肝心なのはその間に何をしたかです。ご自慢のアベノミクスは、税制で優遇されている富裕層や大企業には多大な恩恵があっても、一般庶民や中小企業への施しは雀の涙程度に過ぎず、新型コロナウィルスの襲来でほぼ完全に破綻しました。確かにコロナ禍は初めての経験であり多少の右往左往は致し方ないとも言えますが、最優先で手を打つべきPCR検査の拡充や医療現場の負担軽減策では、多くの人々がやきもきするほど心許ない有様に終始したというのが実態です。

最も問題なのは、安倍晋三が政権を握っている間に国のあり方を激変させる幾つもの法案を強引に成立させたことです。権力側のご都合次第で対象を指定できる特定秘密保護法案を皮切りに、平和憲法の根幹とも言える専守防衛から一部とはいえ集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法案、更に適用次第では国民の自由な言動を縛り兼ねない極めて危険な共謀罪法案と、大きな問題点を持つ法案を現在の選挙制度のおかげで転がり込んだ絶対多数を武器に度重なる強行採決で成立させてしまいました。これらの法案がやがて人々にどんな影響を及ぼすことになるか、誰もが注視していく必要があり非常に気がかりです。

その上、最近になって
アメリカ軍が保有する核兵器を「共有」という形で自衛隊機でも使用できるようにしようという提言まで行いました。これこそ正に安倍晋三の心中の中にずっと巣くってきた「軍事大国への渇望」を示すとしか思えません。本当に危険な人物です。「敵基地攻撃能力・・・」などという刺激的な表現をその影響も考えずに発してしまう愚かな政界人にも呆れかえりますが。

=青天白日とはほど遠い数々の疑惑=
また、安倍政権が残した
数々の疑惑、森友学園、加計学園、そしてサクラの会問題、それらのどれも全容解明とはとても言い切れないままです。森友に関する公文書の改ざんを強要されたあげく、死を選ぶことになった元近畿財務局職員の赤木さんの妻が起こした裁判も、政権側が検察幹部の人選にまで介入する事実上三権分立が存在しないこの国では、案の定政権側にキズが付かないような配慮が優先されてしまいました。加計学園の場合は全く子どもだましのようなもので、安倍晋三が生来の友と頻繁に会いながら何の便宜も計らなかったとはとても考えられません。更に、サクラの会問題ではホテル側が破格の料金で対応したとされていますが、実際はホテル側が政権に不利な情報を提供した場合のリスクを避けるためそのような形にしたことは容易に推察できます。検察側がメスを入れようとしても、様々な策を弄してそれを阻もうとすることは見え見えです。

一口に言えば、
安倍夫妻の場合は「脇が甘かった」ために、真相ははっきりしないが印象としては黒に近い灰色と受け取られる場合が目立ったのです。特に昭恵氏の場合は、天真爛漫さが災いして首相夫人という自らの立場を省みない言動がしばしばあり、それが恐らく夫の安倍晋三には悩みの種だったことでしょう。中でも、夫妻が揃って森友学園での皇国史観に基づく教育(狂育)を賞賛したことは戦後の日本の憲法上の成り立ちから見れば極めて大きな問題になるところですが、残念なことに国有地売却の金額に関しての追及だけになっています。いくつかの罪は背負っていても、籠池氏の言い分も決して全てがウソではないというのが実感です。

=強硬姿勢が目立った菅政権=
ひるがえって安倍政権の後を継いだ
前菅政権の政治姿勢を見るときそこには安倍政権との大きな違いが見られました。一口に言えば、批判を恐れず「強行突破」を辞さないということです。任期が僅か年ということもあって、短期間に実績を挙げることを焦っていたように見えました。コロナ禍をきっかけに明らかになった日本のデジタル化の遅れを取り戻すためのデジタル庁の新設、特に声高に述べていた携帯電話の通信料金値下げ、これらはどちらも大いに結構なことでした。しかし、問題とされた日本学術会議会員の任命問題に関しては全く不可解でとても理解できません。6人を任命から除いた理由を未だに明らかにしないのは、やはり彼らが政権側の意向に反する発言をしていたからだと受け取るのが自然です。

このような独善的なやり口は、民主主義とは真逆の方向である「政権の意向に逆らう者は排除する」という姿勢であり、「異なる意見でも少数意見でも尊重して、より良いものを見いだす」という民主主義の本来のあり方に全く反するものです。

=過去の夢となった科学技術大国=
現在では影が薄くなっているとはいえ、
いやしくも「科学技術大国」を目指していたはずの日本で、このような手法がまかり通るとしたら国の将来までも危うくしてしまいます。たださえ、この国では目先の利益を生み出すものにしか関心が向かず、最近のノーベル賞受賞者が何度も警告している「若い研究者に対して、基礎研究に集中できる環境(時間的、金銭的)を・・・」にも積極的に耳を傾けようとしていません。優れた業績でノーベル賞を受賞した人々は、それまでの数十年間にわたる地道な研究の蓄積が元になっていることを、少しでも考えてみてほしいものです。総じて、日本の政界や経済界は、「すぐにカネを生み出す活動」にだけ目を向ける傾向が強く、将来世界に広がってゆく可能性がある研究などには着目しないように感じます。既に様々な統計にも現れているように、学問や技術の分野でも日本はいわゆる先進国の中でも低い水準に落ち込んでいます。このままでは近い将来人口減少に伴う活力の衰退もあって世界での存在感が今以上に薄れてしまうように思えてなりません。派手な活動にだけ目を向けず、長期的なビジョンに立って学問や教育に力を注ぐことが大切ですしっかりした基礎を造らずにやたら結果だけを求めるのでは、底の浅い小手先のものしか得られず長く役立つ大きな果実は絶対に得られません

=脅迫を武器に独裁政治をもたらす内閣府=
「政治主導」の名の下に強化され過ぎた内閣府のあり方が、様々な弊害をもたらしたように感じます。今回の学術会議問題での6人の任命拒否もどうやら内閣府の杉田某によるものらしく、権限のない人間にこのようなことを許す内閣府の体質に大きな疑問が涌きます。安倍政権時の欠陥マスクの配布も側近の一声で決まったとか・・・。要するに、身辺にお友達や手なづけたお気に入りを集めて勝手放題をやらせるのが、この国のボスの体質なのかも知れません。能力的には政治家を名乗っている彼らより遙かに優れていると思われる官僚集団に、有無を言わさぬ人事権を振りかざした脅迫をもって対するとは、何と思い上がった人種がこの国を支配しているのでしょう!

また、菅氏は就任直後に官僚組織に対して「政権の意向に従わない者は異動させる」と明言していましたが、これでは安倍政権時にもまして官僚の萎縮を招くことは必至で、善意や真面目さからの疑問や提案をも不可能にしてしまう愚かな振る舞いとしか言いようがない手法です。

他国とは比較にもならないほど遅れているワクチン接種でも、公式には「接種方式は自治体の裁量に任せる」と言いながら裏では「対応の仕方で評価する」という狡猾なやり方が取られる場合があり、これからも色々な場面で続くような気がします。残念ながらことわざとは逆に「驕れる者久しい」この国の政界では、これからも次々に不可思議な出来事が見られることでしょう。

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 78 民主主義が根付く気配の感じられないこの国  (22.4.6 追記

=「和をもって貴しとなす」の功罪=
聖徳太子が17条の憲法に盛ったと伝えられているこの言葉は、この国の人々の意識に様々な影響を及ぼしてきました。今は遠い過去となった高度成長期の会社員たちは上からの指示に何の疑問も持たずに尽くすことを“和”の象徴と信じ込み、あえて異論を唱える者には批判的な目で報いていたようです。同じ傾向は身近な日常の中でも変わらず、大多数の人々と異なる意見や態度を示す人物は変人視したり極端な場合は“村八分”的な反応で報いる傾向が決して少なくありませんでした。そして、このような傾向は現在でも無くなったとは言い切れないように思います。

日本人一般の
こうした傾向にも利点があることは確かです。周囲に気を配ることを優先にする中でひそかに大方の傾向を把握し他の人々を刺激するような意見や行動をできるだけ慎もうとするため、意見の相違にともなう口論や喧嘩が起きることは少なく見かけの上では“平和”が保たれます。同じような傾向が生活空間だけでなく広く社会的にも存在するため、諸外国でのような実力行使による大衆運動や暴動とは無縁に近いのがこの国です。かつて高度成長を支えた人々も、会社の示す方針等への疑問を示すことなく唯々諾々と汗を流した訳で、自らの考えや家庭生活への影響などは意識の外に置いて頑張った点では同じことになります。

しかし、このような
一見望ましく思える日本人の性向が、年々激しく変化する現在のような世界の中では決して望ましいものではないのです。自らの考えを率直に示さず作り笑いで人に接することは、自分の考えを正確に伝えることができずに相手に誤解を与えたり、場合によっては反感を招く恐れさえあると思います。

一口に言えば、
「和が一番大切」という主張は大なり小なり権力を持つ者にとっての便利な殺し文句であり、「反論などを述べる者は和を乱すけしからん存在、お前ら黙って従え!」という民主主義とは相容れない意思を表すためによく利用される表現なのです。創世記の混乱に満ちた時代には国をまとめる根本原理として適切だったとしても、物事の価値基準が全く変わった現代には既に適合しなくなっているのがこの言葉だと思うのです。

=先のの衆議院議員選挙に思う=
様々な失政を重ねて退陣した菅政権のあとを継いだ岸田氏が間を置かず行った衆議院議員選挙の結果は、正に日本人の政治に対する認識の狭さの象徴と言えるものでした。メディアの予想が当てにならないのはいつものことですが、コロナ対策の拙劣さやコロナ禍の下でのオリンピックの強行、前項に書いたような強引な政治手法など、批判が集中しても不思議ではない自民党を、あろうことか単独過半数にまで導いたこの国の選挙民は、一体何を基準に投票したか理解に苦しみます

口を開けば
「野党が信じられない」と言う人々は安倍政権以降の自民党政権が行ってきた事実上の独裁政治に何の疑問も持たないのでしょうか?鼻先にニンジンをぶら下げられればすぐに飛びつく人々、将来必ず自らが火の粉を浴びることになる可能性の高い重要な法案でも簡単に忘れ去ってしまう人々、このような状態では永久に本物の民主主義が根付くことはありません

立憲民主党の惨敗の原因は色々あるでしょうが、私は最も大きかったのは共産党との選挙協力だと思っています。自民党に対抗するため小選挙区での候補一本化を狙ったのは正しい選択でしたが、共産党との話し合いをメディアが大きく取り上げたため人々に強く印象付けられたのが逆効果になりました。以前から主張しているように得票率と議席占有率が大きく乖離する小選挙区制は欠陥そのものですが、それ以上に日本人の心の奥底に長年刷り込まれてきた「“共産”という語に対する生理的な嫌悪感」が根底にあると思うのです。確かに過去のソビエト連邦や現在の北朝鮮、更には厳重極まる言論統制を敷いている中国などを見れば、「共産党=断固拒否」の図式は理解できます。安全保障や天皇制などで基本政策の異なる政党が選挙協力をすることへの反発も分かります。しかし、自民党が政権を取り戻して以来続いてきた事実上の一党独裁がどれだけ政治を歪めてきたか、そして様々な疑惑を生み不祥事を招いてきたか、それらの遠因は明らかに一党独裁を許した選挙結果にあるのです。

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79 報道機関の水準の低下が人間社会に及ぼす影響  (22.4.6 追記 

二刀流での大活躍でメジャーリーグの
MVPを勝ち取った大谷翔平選手の日本での記者会見
では、日本人記者の質問の内容があまりにもくだらなかったことに外国人記者はもちろんネット上でも批判が少なくなかったそうです。彼が大方の予想を大きく裏切ってあれだけの結果を残したことの裏に隠された地道な努力や、二刀流なるが故の体調管理や悩みの克服等野球に関する質問はそっちのけで、国内での出来事に対してきたのと同様賞金のことや結婚への関心など全く野球とは無関係な質問をさも重大事項のように取り上げていたそうで、「これがインテリを標榜する記者の実態なのか!」と嘆くばかりです。

かつては、現在のように
TVやネットが幅を利かす世の中ではなく新聞とラジオ、とりわけ新聞が最も権威を持つ報道機関でした。当時の新聞記者は知識人の代表として世に認められ、その手になる報道の内容は世の人々にも尊重されるのが常でした。新聞界自体も自らを「社会の木鐸(ボクタク)」と称し、その立場から活動していたと思います。しかし、世は移り変わって今や情報伝達の手段としての新聞は、ネット社会はおろか斜陽の気配がささやかれるTVにさえ及ばない影響力の低下が見られるようになっています。

ネットには無責任で自己満足的な情報が氾濫し、デマや中傷で善良な他人を傷つける投稿も目立っています。自らの存在を隠し人間のえげつない一面をあらわにしてしまう匿名が許されていること自体が、SNSなどの最大最悪の問題点です。スマホがいくら便利になっても、人々が触れるのは自分の興味に関わるニュースやアプリであって、耳の痛いニュースや重要でもとっつきにくい話題は無視するのが(とりわけ若い世代では)通例です。従って、かつての新聞のような信頼できる内容に触れるのはかなり難しく、いい加減な情報に惑わされて損害を被ったり危険な目に遭ったりする事件も後を断たないのが現状です。制約がほとんどない自由を手にする代償として、思いがけぬ損失や危険から身を守るための賢さを持つことが、絶対に必要とされているのが現在のネット社会に生きる私たちです。

いつの世でも、
人間にとって最も大切なのは自分自身でものを考え対処する姿勢です。と言っても、一般の人間が世に起こる全ての事柄を把握するのは不可能で、それを補うのが様々な報道システムであることは間違いありません。私たちは、そうして得た大量の情報を取捨選択して自らの立場を確立したのちに、意見を表明したり行動を起こしたりするのがあるべき姿だと思うのです。しかし、前項(78)にも書いたような多くの日本人にありがちな「大方の有り様に合わせる」習癖が災いして、物事に対処する際に「本来のあるべき姿」ではなく「組織や地域社会に波風を立てないかどうか」の観点に立つ人々の方が圧倒的に多いように感じてしまいます。

話は戻りますが、
かつての新聞界が目指していた「社会の木鐸」とは「ただ単に情報を提供するだけでなく、新聞には世の人々に問題を提供することで彼らの意識を目覚めさせていく責任がある」ということで、現在のTVのように人々の低次元な興味を惹くことでよしとするのは新聞の存在意義の否定でしかないという立場だったのです。もちろん、軍部主導の政権からの強い干渉であの無謀な戦争へと国民を導くような報道を、たとえ一時的でも行ってしまった一面は否定できず、その点については現在の新聞界は十分な警戒と細心の注意を払っていると信じたいです。

本来は「人間が利用する物」であるはずの機器やシステムが、現在ではほぼ完全に多くの人々を支配しています。私も確かに便利なスマホはかなり利用していますしパソコンでのインターネットに関わる様々な機能のお世話にもなっています。しかし、これら以外にも多くの趣味を持っている関係もあって、どんなに便利でもスマホやパソコンの忠実な奴隷になるような情けない存在にまで落ちぶれる気持ちは全くないのです。

 
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80 21世紀の今、突然に訪れた「すぐそこにある戦争」 (22.4.6) 

メディアで連日多くの情報が与えられてる今、いくらまともなニュースには日頃無関心な人々でもウクライナに何が起こっているかは知っていると思います。ウクライナがNATO加盟に傾く兆候を知ったロシアのプーチン大統領が、戦争の勃発を防ぐ目的で存在する国連安全保障理事会の一員である立場を乗り越えて侵攻に踏み切ったことは、全世界の人々にはこれ以上ない衝撃を与えました。戦争に明け暮れた20世紀をあとにして今世紀こそは戦争のない世界を築こうとした矢先に起きた9.11テロをきっかけに、泥沼のようなテロリストとの戦いが始まりました。アフガニスタンはもちろん、嘘っぱちの情報を元に行われたイラクへのアメリカ軍侵攻は中東地域の不安定化を助長し、シリアでもイェーメンでも、もちろんアフガニスタンでも全く平和とは相容れない状況のままです。

しかし、
今回のウクライナ侵攻はこうした特定の地域での紛争とは全く違った性格を持つものであり、決して日本と無関係とは言えない事態をもたらしています。天然ガスの輸入が困難になり、石油の値上がりがあらゆる生活物資の値上がりをもたらすことは当然の成り行きですが、そうした日常の問題とは次元の違う大きな問題が身近になってきました。

NATOは元々旧ソ連からの脅威に対するために設立された軍事同盟で、「NATO内の一国に攻撃が加えられた際には全ての加盟国が一致して対処する」ことが定められています。ウクライナはまだNATOには加盟してないのでこの規定には当てはまりませんが、ロシアとの戦いの過程でもしロシアのミサイルなどが間違って(あるいは間違った振りをして)ポーランドやハンガリーなどに打ち込まれた場合、一体どんなことが起きるでしょうか?形の上ではNATOの加盟国が攻撃された訳で直ちに反撃することになるのですが、「ロシアは核大国」と公言し軍に即応体制を取らせたプーチンの真意を知るのは不可能なので、NATO側がミサイルで反撃したり爆撃機を飛ばしたりするのは全面的な世界戦争のきっかけともなる恐れがあり、事実上不可能だと思います。

さて、今まで何回か書いたように
「日本は本当の意味での独立国ではない」というのが私の気持ちです。全国津々浦々に配置されたアメリカ軍の航空基地や陸海軍の施設に加え、不平等も甚だしい「日米地位協定」、国土の位置がアメリカの西太平洋での勢力維持に重要な役割を持つ点でアメリカにとって大きな利益をもたらしているのにもかかわらず、「アメリカ軍の駐留に対して苦しい国費から多額のみかじめ料を払っている」という卑屈な日本政府苦難のほとんどを沖縄に押しつけて平然としている政府と沖縄以外の地に住む多くの国民、「本土に復帰」したはずの沖縄を言葉の端々で本土扱いしないことにすら気づかないコメンテーターや一般人すっかりアメリカの属国意識が定着してしまった感じです。

プーチンがまかり間違えば第三次世界大戦の端緒にもなり兼ねない核の使用をちらつかせていることは、彼のウクライナ侵攻へのNATO側の対処の仕方に決して小さくない影響を及ぼしています。ウクライナへの直接の軍事援助はもちろん隣国ポーランド経由の援助でも、プーチンはロシアへの攻撃がなされたとしてポーランド侵攻の口実とし兼ねません。前述のようにNATOはそのような場合でも反撃には二の足を踏むことでしょう。

こうした過程をアジアの軍事大国である中国が見過ごすはずはなく、現在では西太平洋に展開するアメリカ軍を遙かに凌いでいると見られる軍事力に物を言わせて、懸案の台湾併合に乗り出す恐れが高まることが考えられます。その場合、もしアメリカ軍が台湾の防衛に乗り出す事があったらどんなことが起こるかを、どれだけの日本人が意識しているのでしょうか?「よその国の出来事だから関係ない」というお気楽な連中は論外ですが、「まさか、いくら中国でもそこまではやらないだろう」という希望的な観測は決して少なくないと思います。

しかし、ちょっと考えれば
それがとんでもない間違いであることは容易に理解できると思うのです。なぜなら、陸海空ともアメリカ軍の基地はグアムを除けば多くが北海道から沖縄までの日本国内に存在する訳で、台湾有事に対応するアメリカ軍の空母も航空機もそこから発進して中国軍と戦う事になり、明らかに日本国内のアメリカ軍基地は中国にとっては最優先の攻撃目標ということになります。こうした観点から見れば、いかにも遠い他国の出来事に見えるウクライナ侵攻も日本にとっては大きな影響を及ぼす恐れのある重大事なのです。

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 81 ウクライナ侵略における一般人への非道な振る舞い (22.4.4)

ロシアによるウクライナ侵略
はどんな理由を挙げても絶対に許されることではありません。メディアが報じる東西冷戦下からのプーチン氏の経歴を見れば、彼がこのような無謀極まる行為に走った心理も多少は理解できますが、戦争が絶えなかった20世紀の反省の下に平和であることが期待されていた今世紀を、再び血なまぐさい戦いが絶えない世紀へと押しやるきっかけを作った罪は極めて重いものです。

まして、
民間人への無差別な攻撃が当然のこととして行われている事実を見ると、ふつふつと湧き出す怒りを抑えることができません。このようなとき私の脳裏に浮かんでくるのは「人間の(動物として具えている)本性」です。生物の進化の過程で地球上に生まれてきた人間の日常もかつては弱肉強食そのものであった訳で、生きるためには他の種族との争いに勝つことが至上命題でした。従って戦いで勝つために同じ人類を殺傷することは自然な行為でありこの行為に関しては罪そのものが存在しなかったことになります。その後長い年月を経て人間が社会的な存在になっていく過程で、お互いに生きていくために必要な約束事を徐々に整えてきた結果が現在の国際的な法体系ではないかと思います。ここで思い出して欲しいのは、それが無視されたり破られたりしたのは決して今回が初めてではないということです。

民間人への無差別な攻撃のうち爆撃だけを取り上げて見ても数え切れないほどの実例があります。その端緒が19374月にナチスドイツの空軍が行ったスペイン北部の都市ゲルニカへの爆撃で、軍事施設などとは無関係に猛爆撃を行って町を全滅させてしまったこの惨状を描いたピカソの絵は有名です)のです。これが悪しき前例となってその後の戦争では関係国が競って無差別爆撃を行い、相手国の一般人を遠慮会釈なく標的とするようになりました。日中戦争での重慶爆撃は有名ですし、ナチスドイツによるロンドンなどへのロケット攻撃も全く無差別なものでした。

無差別爆撃そのものが既に国際法違反ですが、今回のウクライナ各地でのロシア軍の非道は映像で見るだけでもぞっとします。撤退前に住民を虐殺して遺体を路上に放置するなど原始人類にも劣る行為です。もちろん、明らかに一般人が集結している場所を狙ってミサイルを撃ち込むなど、文字通り狂気の沙汰としか思えません。それでもロシア国内の人々は報道統制で真実を把握できず、プーチン氏を熱狂的に支持しています。これを見ても、政権がメディアを支配することの怖さがよく分かります。この国でも既に様々な形で政権によるメディアへの干渉が行われているので、十分な警戒が必要です。

笑止千万なのはアメリカがロシア軍の振る舞いを非難していることです。自国にそのような資格があるかどうかにさえ疑問を持っていないようです。太平洋戦争の中盤から末期に至る間に行われた日本各地への爆撃は明らかな無差別爆撃で、木造家屋の多い日本の都市を廃墟にできるよう特殊な焼夷弾を文字通り雨のように降らせたのです。3月10日の東京下町への大空襲では一夜にして10万人の犠牲者が出ましたが、他の大中小の都市でも同じような爆撃を行いました。そして、とうに戦力を失っていた日本に当時のソ連への威嚇を目的に落としたのが広島と長崎への原子爆弾です。普通の爆弾とは同列にできない原子爆弾、それも片やウラン、もう一方はプルトニウムと実験も兼ねてどれだけの殺傷効果があるかを試したのです。これこそ、今ロシア軍が行っている様々な非道な振る舞いを遙かに凌駕する悪逆非道な振る舞いだったと言うしかありません。

 
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 「賢く人々の日常生活に優しい交通システム」を大切にしているヨーロッパ諸国とは正反対に、老若男女が安心して利用できる鉄道をはじめとする公共交通の衰退に見て見ぬ振りを決め込んできたこの国の「酷怒荒通症」に思いをぶつける。

    データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性  (常時掲載)  

国鉄が民営化されて以降、全国各地で赤字路線は縮小されたり廃止されたりしてきました。一方では国土交通省は高速道路網の整備に巨額の税金をつぎ込んでいます。公共交通の維持を重要視しているヨーロッパ各国の現状に比べると、その近視眼的なあり方には絶望さえ感じます。

鉄道の利点は幾つもありますが、何と言ってもその定時制と安全性、それに見過ごせないのは子どもであろうと高齢者であろうと一人で安全に利用できると言うことです。地方の人々が鉄道の存続に期待をかけるのは、その存在如何が地域の人々の生活に大きく関わっているからです。

いつぞやの新聞の投書欄に掲載された車の効用についてのアンケートタイプの感想を見ても、日本人の車に対する執着の度合いは並大抵ではないことがわかります。必要な時に様々な要求にすぐ応えることのできるのが車であり、その気持ちは私にもよく理解できます。明治維新後の数十年間で先進国もどきに成長したとはいえ、実際はまだ物心両面で途上国並みの部分が色濃く残っているのがこの国だと思います。従って、太平洋戦争の敗戦を契機に世界一豊かなアメリカ人のライフスタイルへの憧れが異常に強まったのも当然で、その一つが車を所有することへの強い欲求でした。

ここでは、そのような
日本人の車中心社会への盲目的崇拝傾向が決して世界に共通のものではないことを示すため、客観的なデータを並べて分析してみました。
 
自動車事故による死亡者数の推移と自動車に関する国ごとのデータ 

鉄道や航空機など他の交通機関に比べたとき桁違いに多い自動車事故での死者数
が1970年度の16765人をピークにほぼ減り続け、1996年度に初めて10000人を割ったのち今世紀に入ってからも年々減少の一途を辿って、2019年度には過去最少の3215人となりました。しかしそれでも見逃してはならないのは、これだけの人命が失われるだけでなく死者一人一人に関わる家族や知人など周辺の人々の生活環境を、物理的にも精神的にも激変させてしまうという重い事実を軽視してはならないということです。

2017年に起きた
東名高速道路でのあおり運転事故に関しては、子どもたちの目前で両親が命を奪われるという悲劇的な状況に圧倒的多数の人々の怒りが爆発し、これを契機に事故原因と適用する罪の軽重の関係が議論となって、以後の同種犯罪に対する裁判での対応にも大きな影響が及ぶようになりました。

ここでは、このような
自動車事故の起こりやすさ(起こりにくさ)の原因の一端になるのではないかと思われるデータを、欧米各国との比較の形で示してみました。可能な限り新しいデータを用いましたが、部分的にはやや古いものや概数のものも含まれています。

表中に示されている
可住地」とは「居住が可能な地」、つまり人間が(特別な装置や装備を必要とせず)普通の状態で住むことのできる土地を言います。
 
   面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 日


 本
 
  377972
  114622

  (30.3%
 
 12748

   337.3
  1112.2
 
   77750520

   61403630
   16346890
 
 60.99

 48.17
 12.82
 
 205.7

 162.5
  43.2
 
 678.3

   535.7
   142.6
 
 ア
 メ
 リ
 カ
 
 9525067
 6103372

  (64.1%
  
 32446

    34.1
    53.2
 
  270566332

  123552650
  14701368
 
 83.39

 38.08
 45.31
 
  28.4

  13.0
  15.4
    
  44.3

    20.2
    24.1
 
 ド
 イ
 ツ
 
  357121
  237810

  (66.6%
 
  8211

   229.9
   345.3
 
   49286000

   45804000
    3482000
 
 60.02

 55.78
  4.24
 
 138.0

 128.3
   9.8
 
 207.2

   192.6
    14.6
 
 
 面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

  
 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 フ
 ラ
 ン
 ス 
  551500
  387640

  (70.3%
 
  6498

   117.8
   167.6
 
   39118000

   32390000
    6728000
 
 60.20

 49.85
 10.35
 
  70.9

  58.7
  12.2
 
 101.0

    83.6
    17.4
 
 イ
 タ
 リ
 ア 
  301336
  201870

  (67.0%
 
  5936

   197.0
   294.1
  
   42699954

   37876138
    4823816
 
 71.93

 63.81
  8.13
 
 141.7

 125.7
  16.0
 
 211.5

   187.6
    23.9
 
 ス
 イ
 ス 
   41277
   27554

  (66.8%
 
   848

   205.4
   307.8
 
    4999271

    4524029
     475242
 
 58.95

 53.35
  5.60
 
 121.1

 109.6
  11.5
 
 181.4

   164.2
    17.2
 
 
 各項目ごとの、日本と他の5カ国とのデータの比較
 
  T 日本と他の5ヶ国との数値の比較 

    @ 
国土の総面積に対する可住地面積の割合が、日本は他の5ヶ国の半分以下
    A 
国土全体の人口密度は、アメリカの10倍、フランスの3倍、他の3ヶ国のおよそ1.5倍
    B 
可住地の人口密度日本が群を抜いて高くアメリカの20倍、他の4ヶ国の3〜7倍
    C 
人口100人当たりの車保有台数は、ドイツ、フランス、スイスと同程度でイタリアよりやや少なく、アメリカの70%
    D 
国土面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜いて高くアメリカの7倍、フランスの3倍、ドイツ、イタリア、スイスのおよそ1.5倍
    E 
可住地面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜きドイツ、イタリア、スイスの3倍以上、フランスの7倍近く、アメリカの15倍

  U Tの結果から分かる日本の自動車事情の特殊性

    @ 広大な国土を持つアメリカは別格として、
日本とほぼ似た面積を持つドイツやイタリアに比べて可住地の人口密度が3倍以上という事
      実
は、日常生活の範囲で周囲に人の存在を感じる度合いが3倍以上ということになります。しかも、実際は人口の偏在が進行している
      現在では
大都市周辺での混雑が尋常ではないことを意味しています。
    A 人口100人当たりの車保有台数にはさほどの差はないものの、早くから車中心社会であったアメリカがやや多くなっているのは至極当然
       のことと言えます。
    B 
問題は単位面積当たりの車保有台数です。国土全体で見ても、自動車産業の先輩であるドイツやイタリア、フランスを遙かに凌ぐ数値
       を示しています。
最も実態をよく表しているのは表の印「可住地1km当たりの車保有台数」であり、その異常な多さが日本の自動
      車事情の特殊性を如実に表す決定的なデータ
です。可住地、つまり「人が生活の場として活動している地」に存在す車の台数が、
      メリカの15倍、それ以外の国々の3〜7倍もある
ということなのです。ごく単純に計算すれば、「38m四方の土地に1台の割合で車が存
      在している」ということ
なのです。しかもこれは住宅などの建物も含めての数値なので、実際にはもっと狭い土地を車一台が占拠していること
       になります。
都市も地方もひっくるめてこの数値になるのは驚くべきことだと言えると思います。 

  V 交通事故の多発を招く諸々のこと

    @ 
日本で交通事故の多発を招いていると思われる要因の第一は、何と言っても前項UのBに示されたように「人が生活の場としている
      土地=可住地」当たりの車の台数が際立って多いこと
に尽きます。国土が広大なアメリカは別として、ヨーロッパ各国に比べて生活圏
       の車の台数が3〜7倍も多いのでは、自動車事故が起こらない方がむしろ不思議と言っても過言ではない
でしょう。
    A 高速道路などの自動車専用道路を除けば、
大都市以外の地域での一般道路は概して道幅が狭く、歩道の設置されている区間は限
       られ
ています。また、歩道があっても歩行者の安全を確保するためのガードレールがなかったり、電柱などの障害物で安全な歩行が難し
       い箇所も少なくありません。更に、車道は平坦でも歩道は工事の後始末さえ不十分で凸凹だらけというのが実態
です。結局のところ、
      本では人命の保護よりも自動車交通の円滑さを優先させるのが半ば常識とされている
とさえ言えます。このことは、自動車事故での死
      者のうち歩行者の占める割合が日本は36%であるのに対し、アメリカやヨーロッパ各国では15%程度であることにも現れて
います。
        ※ 以前から問題とされている(特に若者による)自転車事故の増加に関しては「自転車も車両(軽車両)だから車道を走るべきだ」
          とよく言われます。これを錦の御旗のようにのたまう
国交省の官僚たちは実際に路側帯を自転車で走ったことがあるのでしょうか?
          
彼らは恐らく東京などの大都市のきちんと整備された車道しか認識していないのでしょう。
    B 
交通ルール遵守の意識が希薄な運転者の増加も目立っています。交通法規に盛られているのは他の運転者や歩行者のために最低
       守るべきものですが、それすら無視して事故を起こしたり誘発したりする例があとを絶ちません
。東名事故のような悪質なものは別としても、
      
日常的に行われているルール違反の中にはいくつか無視できないものもあります。特に目立つのは次の二つです。
        ○ 
適切な車間距離の確保がほとんどされていません。あおり運転のような犯罪的な行為は論外ですが、一般の運転者でもこの点
           についてはあまり深く意識していない
ように思います。車同士の事故が起こるたびに必ずと言ってよいほど付随する玉突き衝突の
          根本原因がこの点にあることは明らか
です。制動距離、つまり「ブレーキを踏んでから停まるまでの距離」は(速度)に比例する
          で時速100kmの場合の制動距離は時速50kmの場合の制動距離の2倍ではなく2の4倍になるのです。
車間距離を適切に取
          っていれば事故も起きずスムーズに走れる
のに、先を焦って車間距離を詰めた結果事故に巻き込まれて命の危険や時間のロス
          を招くのは、本当にバカげているとしか言いようがありません。
        ○ 
信号機のない交差点では「右大回り左小回り」が原則であるのに、それを知らない運転者が多過ぎます。
           車には必ずある内輪差を考えれば、右折レーンのない交差点では右折のときはできるだけ大回り、左折のときはできるだけ小回りを
           心がけるのが事故の発生を防ぐための方策です。しかし、教習所で教えられていないのかこのことを知らない運転者が非常に多
           いように感じます。見通しの利かない交差点での右左折で起こる事故の多くはこのことが原因であることは間違いないでしょう。
        ○ 
何よりも見過ごせないのがドライバーに歩行者を優先させる意識が非常に薄いことです。特に、信号機のない横断歩道を歩
          行者が渡ろうとしても、停まってくれる車は(私の日常の経験では)1/10程度
に過ぎません。最近その実態が報道でも取り上げ
           られていますが、長野県の68%は立派としても多くは10〜20%程度に過ぎません。
このことはマナーではなくルールであり違反す
          れば処罰を受ける行為と認識されるきっかけになればと思います。端的に言えば、
車の普及で年々増え続けてきた日本のドライバ
         ーの心には、車優先の意識が根強く植え付けられてきた
ように思えてならない
のです。
            ※ ヨーロッパを歩いた経験のある人なら分かると思いますが、このような光景はほとんど見られません。観光大国のスイスなど
              は、横断歩道に人影が見えるだけで車は遙か手前から減速し、人が渡りきるまでは停車して待っています。 
    C 
このほかにも事故を誘発しがちな事柄がいくつか考えられます。例えば、ながら運転に見られるような「車は走る凶器」であることを忘れた
       緊張感を欠く運転
も決して少なくありません。停車中の他の車を追い越す際の注意不足も含めて、常に周りの状況に合わせた運転の仕
       方に気を配ることの大切さを忘れた運転も目立ち
ます。

   W ヨーロッパ諸国と日本との交通事情の違い

     @ 敗戦後、
日本人の多くはアメリカ人の豊かな生活に憧れてひたすらその後を追ってきました。白黒TV、洗濯機、冷蔵庫に始まった「三
       種の神器」も、高度成長期はカラーTV、クーラー、自家用車の3Cに変わったのです。
人間が豊かさを求めるのはごく自然な姿には違
       いありません
問題は「日本とアメリカの極めて大きな国情の違い」です。上の表からもはっきり分かるように、国土の広さや人口密度、と
      りわけ可住地の状況が極端に違い
ます。国土全体の人口密度はアメリカの10倍、可住地に限れば20倍以上です。そこに乗用車に限
      ってもアメリカの半分の車が走っている事実を見れば、それがどれほど異常なことかは誰にも分かる
と思います。可住地に存在する乗用
      車の密度はアメリカと比較すれば何と25倍以上
なのです。その結果として、どんなに狭い路地にも車が入り込んでくる有様は、とても正
      常とは思えません

    A 
ヨーロッパ諸国と比較してみると、日本の特殊性が更に際だって見えてきます。国土面積が似通ったドイツやイタリアでも、可住地
       の車密度は日本のほぼ1/3であり、やや広いフランスの場合は日本の1/6以下
です
車密度の高さが事故の可能性を大きくする
      
ことが十分予測できる以上、ここでも日本の車密度、言い換えれば「感覚的な車の多さ」の異常さが明らかになってきます。
    B 
もう一つ注目したいのは車保有台数の内訳です。国土が非常に広いアメリカでは乗用車よりもトラックやバスの台数が上回っています
       が
ヨーロッパ諸国を見るとトラックやバスの台数は乗用車に比べて桁違いに少なくなっています。理由として考えられるのは「貨物輸送
       が環境に優しい鉄道に大きく依存している」
ことです。
     C 
ヨーロッパではたいていの都市には路面電車が走っていて、多くの市民が日常的に利用しています。しかも、多くは乗り降りしやすい低
      床車の長編成(4〜6両)で、市内くまなく路線が張り巡らされているため非常に便利
です。日本でも広島や富山など地方都市では路 
      面電車の整備が進んでいますが、大都市では自動車交通を優先させる方針から路面電車はほとんど見られなくなってしまいました。 
       
ヨーロッパではこのように路面電車が生活の便利な足にもなっているため、車に頼り切る考え方が存在しないのです。
     D Cでも分かるように、
日本とヨーロッパ諸国では交通というものに対する考え方が正反対なのです。日本では効率が最優先であり何よ
      りも速いことが重視され
ます。しかし、ヨーロッパでは効率をある程度下げても環境への負荷の低減を優先させる考え方が大切にされ
      ている
のです。私も時折見かけましたが、ヨーロッパの観光地でほとんどの人々がゆったりと構えている中でセカセカ動き回っているのは
      たいていが日本人でした。日頃から「速いことが一番」と焦る習慣が抜けきれず、特に急ぐ必要がない場面でもそうしてしまうのでしょう。

  X 高齢者が起こす相次ぐ事故の背景にあるもの

    @ 最近は
高齢者による事故の話題が世間を賑わすことが多くなりました。原因のほとんどはアクセルとブレーキの踏み間違いですが、メー
      カーは構造上の問題があるとは認識せず抜本的な対策を施そうとはしません。加齢による能力の低下が踏み間違いの唯一の原因であ
      るとの立場です。 
    A しかし、
根本的にはWで述べたようにこの国の異常極まる車密度の高さが真の原因であり、残念ながら今となってはこれを改善するのは
      事実上不可能
と言わざるを得ません。その根底となっているのは、数十年間にわたる国の交通政策の間違いとしか思えません。
    B このように
人々が車というものに過度に依存するようになった原因は色々あるでしょうが、一つには輸出による外貨獲得の主役となった自
      動車産業を国や経済界が手厚く保護し過ぎたことにあると思います。そこには、
近い将来国内の交通事情がどうなるかへの配慮や疑 
      問が介入する余地はなく、GDPが増えることしか国や経済界の関係者の脳裏にはなかった
のではと思います。
    C 更に、大地震などの甚大災害の際には国の存亡にも関わりかねない東京一極集中をやみくもに進めた結果、地方では中心都市です
      ら商店街のシャッター通り化が進み、大型店が進出してもほとんどが車でないと行けない郊外になりがちで、
高齢者でも危険と知りつつ
      運転せざるを得ない状況
が生じています。車なしでも買い物やその他の日常活動が可能なコンパクトシティが話題になったのはつい最近
      ですが、時既に遅しというのが実感です。要するに、
ここまで車が人々の日常生活に密着してしまっては手の打ちようがないとしか言いよ
      うがありません。
    D 最も目立つのは、
この国の政治家には公共交通を守ろうという姿勢がほとんどなく、ヨーロッパ諸国のような公共交通優先の考え方が
      全く欠落している
ことです。地方の鉄道会社やバス会社は車の増加に伴って経営が苦しくなり、路線の縮小や減便、やがては廃止へ
      と進むことが多くなっています。そのため、
高齢者は車の運転をやめたくてもやめられず、いつ遭遇するかも知れない事故への恐怖ととも
      に生きている
のです。
       
 私の決断、車との(世の常識では恐らくあまりにも早過ぎる)決別

私は70歳の誕生日を期して車の運転から完全に“足を洗い”ました。40歳くらいまではまだ幼かった子どもを別に暮らしていた母に日中だけ預けなければならず、また、その後住むようになった新興住宅地には駅までの交通手段がなかったため、やむを得ず車を使用していたのです。しかし、数年後に住宅地から駅までの路線バスが開通して、通勤には車を使う必要がなくなりました。バスの本数は1時間に朝夕は4,5本、日中は2,3本ですが、これだけあれば十分です。

元々好きではなかった車の運転をできるだけ早くやめたいと思っていた私ですが、この頃になるとマナー以前のルールさえ無視するドライバーが少しずつ目立つようになり、このままではいつか大事故に巻き込まれるのではないかという恐怖心が高まってきました。普段の通勤に車が欠かせない状態からは解放されましたが、仕事の関係から時折は不便な地域への出張に使わざるを得ないこともあって、まだ車は残してありました。

しかし、退職してからは精々バスでは行けないスーパーへの買い物に出掛けるくらいでしか車を使う機会はなくなり、
区切りよく70歳の誕生日で車と絶縁することに決めました。まだ車自体はしっかりしていて車検も済ませたばかりでしたが、そんなことは二の次の問題で一日も早く事故の加害者や被害者になる危険から脱出したくなっのです。こうして車から離れたときの爽快な気分は表現のしようもないくらいでした。多くの人々のように鼻歌気分で車の運転を楽しめず始終緊張状態を強いられていただけに、それから解放された喜びは運転好きの人々には到底理解できない心の動きに違いありません。私にとっての車は、いつ自分自身、ひいては家族をもどん底に突き落とすかも知れない怖ろしい厄介者だったのです。

車から離れて以後は、92歳になった今までずっと買い物などは1時間に1本のバスと徒歩で済ませています。若い頃からずっと人混みが大の苦手だったため、通勤時も含めてエレベーターやエスカレーターは余程のことがない限り使ったことがなく、恐らくそのためもあって足腰は人並み以上に強く、最近でも低山や渓谷などのハイキングを楽しんできました。コロナ禍が始まってからはそれができず本当に残念です。

確かに、
国の交通行政の無策から地方のみならず都市近郊でも公共交通の衰退が目立つようになり、人によってはどうしても車に頼らざるを得ない事情があることもよく分かります。しかし、少しでも可能性があるのなら、高齢者は一日も早く車の運転に決別することが自分自身にも家族にも安心をもたらすと思います。車に依存する日々が長く続けば続くほど、身体、とりわけ足腰は弱まっていきます。身体の老化を遅らせるためにも車への依存から早く抜け出す方が良いことは明らかです。長〜くなった老後を自分の足で送れるようにするためにも

新技術への疑問と危惧 

だいぶ前から
自動運転がもてはやされ一部では試運転もされていますが、これには多少懐疑的にならざるを得ません。詳しく調べた訳ではないのでごく素朴な疑問だけ述べて見ます。完全な自動運転のためには車の現在位置を正確に認識する技術が不可欠ですが、その場合は恐らくGPS衛星による機能が用いられるのでしょう。国産のGPS衛星の性能は非常に優れていると聞きますが、果たしてcm単位までの精度があるのでしょうか?都会地だけでなく田舎の農道や山岳地帯などの曲がりくねった道でも安全に走れるほどの機能があるのでしょうか?

それに、もし悪意を持った相手(人物 or 組織、国家)にGPS機能を乱されたら致命的な結果を招くというのは杞憂でしょうか?ましてや、GPS衛星を破壊されたら途端に道路交通は完全に麻痺してしまいますが、このような場合の対処方法はあるのでしょうか?物事は常に最悪の事態を予想しておくのが定石です。

これはまだまだ先だとは思いますが、最近話題になってきた
「空飛ぶ車」が実現したらこれはもう大変な危険を招きます。現在でも飛行機からの落下物が時々あって問題になりますが、その比ではなくなることは確かです。恐らく飛ぶコースや高度、スピード、時間帯などの規制は設けられるでしょうが、必ず意図的に無視する輩が現れるので人々は安心して眠ることさえできなくなります。いわば「三次元の恐怖」が出現する訳ですが、私の場合その頃には消えているでしょうからセーフということになります。

でも、こうして
人間が「より便利に、より楽に」を追求し続けていったら何がもたらされるのでしょうか?決してプラスだけではないと思うのです。
 
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