無名人の独り言

 

    このページには、私が日頃思うことを随時書きたいと思います。        
       ※  わざわざ「無名人」としたのは、有名人の言動にのみ過度に反応する世の風潮への大きな疑問からです。  
25 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に      73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  
81 政権は何のためにオリンピックを強行するのか  82 私の疑問 3 (呪われたオリンピックへの思い)
83 無謀な祭典の裏でほくそ笑むコロナウィルス  
   
67 データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性……あまりにも大きな“副作用”をもたらした過度の便利さ追求  
   
                     メールコーナー (感想・意見をどうぞ) 



25 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に  常時掲載)

ゲームや映画では見ていても
実際に戦争を経験していない人々には、私がなぜこれまで安倍前政権を非常に危険視してきたか中々分からないと思います。そこで、いくつか述べてみることにします。

  
これらの項目に是非注目を!!

 @ 
戦争は一般の国民が起こすのではなく、例外なく時の政府など権力者の主導によって引き起こされるのです。
 A 
戦争はいきなり起こるものではなく、必ずかすかな前兆から始まりそれが徐々に確かな形になっていくのです。
 B 
情報を隠したり積極的に人々に伝えようとしなくなるのは、やがて戦争へとつながる危険な兆候です。
 C 一旦
戦争が起きてしまえば人々は否応なく巻き込まれ、反対や抵抗は事実上不可能となります。
 D 
戦争で犠牲になるのは常に罪のない一般の国民で、自由は剥奪されて権力者の道具とされるのです。
 

このように書いても、
有り余る自由を手にした戦後の平和憲法下で戦争を身近に感じることなく生きてきた人々は、「まさか戦争なんて!」と一笑に付してしまうに違いありません。以前に繰り返された国会前での抗議集会には私も参加しましたが、デモ行進の沿道では「戦争なんて起こる筈がないのに何を大げさに騒いでいるんだ!」という態度の人が少なくありませんでした。国会周辺でデモ行進をしてもそれに共鳴する雰囲気はあまり感じられず、見方によっては冷ややかとも受け取れました。恐らく「日本はもう戦争なんかとは関係ないよ」という考えだったのでしょう。

しかし、多くの知識人や憲法学者、元自民党の有力者たちまでもがこぞって反対した強行採決による集団的自衛権容認を突破口とする
安倍一派のやり口には、太平洋戦争の経験者の目には戦前の日本を彷彿とさせるものがあったのです。国民の目と耳をふさいで物事の真実を知られないようにしておき、その裏でどんどんと戦争への道を進めていったのがあの当時軍部が事実上支配していた政権です。国の動きに少しでも疑問を抱く言動には厳しい統制と国家権力による迫害処罰が行われるため、一般の国民が声を挙げることなどは到底無理な時代だったのです。【全体主義の世の中は現在のような行き過ぎるほどの自由を手にしている世の中とは異次元の世界】であり、現在とはとても比較にならない厳しい環境を強いられた時代なのです。

現在はまだ形の上では民主主義の時代であり、人々はどんなことでも自由にものを言ったり書いたりできます。こうして政府や権力者の批判も自由にできます。何事でもそうですが、普段何の制約もなくできることはいつしか当たり前のように思ってしまい、それがどれほど恵まれ貴重なことなのか意識せずに過ぎてしまいがちです。

同じ「戦争」と言っても、
太平洋戦争は日本が自ら起こした戦争であるのに対し、私が今ここで強調したい「戦争」は「アメリカが将来起こす可能性の高い戦争に巻き込まれる形での戦争」です。広い意味ではもう既に「新しいタイプの戦争」であるテロ集団による攻撃の脅威に日本も巻き込まれているのです。コロナ禍の終息を夢見て開催を目指している今回のオリンピックは果たして無事でしょうか?オリンピックはテロリストにとってはまたとない美味しい標的の一つです。オウム真理教による地下鉄サリン事件でも分かるように、テロは攻撃する側が絶対的に有利な立場であり、いつ、どこで、どんな方法で実行するかはテロリスト側が自由に選ぶことができるのです。しかし、防御する側はいくら事前に対策を強化しても限界があり完全に防ぐことは不可能です。世界各地で起きてきたテロを見ればそのことは容易に理解できると思います。

更に
見過ごせないのは、経済的にも軍事的にも加速度的な膨張を続ける中国の動きです。「一つの中国」を声高に唱える中国が中々自由にできない台湾を虎視眈々と狙っていることは周知の事実ですが、それを阻んでいるのがアメリカの軍事力であることは明らかです。しかし、全てを思い通りにできる独裁体制の下で着々と軍備増強を進めてきた中国が、いつの日か台湾を力で支配しようと行動を起こさない保証はありません。万一それが現実となったときは、民主主義諸国中最も多くのアメリカ軍基地を抱えている日本が無事であるはずはないのです。現に、そのような場合は横須賀、横田や佐世保、沖縄などの米軍基地を直ちにミサイル攻撃する意向が中国にはあるとの情報もあります。つまり、日本国民の意向とは無関係に、否応なく日本は戦争に巻き込まれてしまうのです。もし核ミサイルでも使用されれば、狭い島国の行く末がどうなるかは言わずもがなです。

「まさか戦争にはならないだろう」という楽観的な見方に頼りたいのが人間の自然な心理に違いありませんが、そう言い切れないのは
人間には時には理性を凌いでしまう“感情”という厄介なものがあるからです。やむことなく世界各地で繰り返されている殺し合いを見れば、そのことは明らかです。

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 73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  (21.6.1 更新

=安倍政権が手がけた暗黒政治への道=

7年8ヶ月続いた安倍政権が史上最長とかもてはやされていましたが、
「山高きが故に尊からず」と同様「任期長きが故に・・・」であり、肝心なのはその間に何をしたかです。ご自慢のアベノミクスは、税制で優遇されている富裕層や大企業には多大な恩恵があっても、一般庶民や中小企業への施しは雀の涙程度に過ぎず、新型コロナウィルスの襲来でほぼ完全に破綻しました。確かにコロナ禍は初めての経験であり多少の右往左往は致し方ないとも言えますが、最優先で手を打つべきPCR検査の拡充や医療現場の負担軽減策では、多くの人々がやきもきするほど心許ない有様に終始したというのが実態です。

最も問題なのは、安倍晋三が政権を握っている間に国のあり方を激変させる幾つもの法案を強引に成立させたことです。権力側のご都合次第で対象を指定できる特定秘密保護法案を皮切りに、平和憲法の根幹とも言える専守防衛から一部とはいえ集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法案、更に適用次第では国民の自由な言動を縛り兼ねない極めて危険な共謀罪法案と、大きな問題点を持つ法案を現在の選挙制度のおかげで転がり込んだ絶対多数を武器に度重なる強行採決で成立させてしまいました。これらの法案がやがて人々にどんな影響を及ぼすことになるか、誰もが注視していく必要があり非常に気がかりです。

=青天白日とはほど遠い数々の疑惑=
また、前政権が残した
数々の疑惑、森友学園、加計学園、そしてサクラの会問題、それらのどれも全容解明とはとても言い切れないままです。森友に関する公文書の改ざんを強要されたあげく、死を選ぶことになった元近畿財務局職員の赤木さんの妻が起こした裁判も、政権側が検察幹部の人選にまで介入する事実上三権分立が存在しないこの国では、恐らく政権側にキズが付かないような配慮が優先されることでしょう。加計学園の場合は全く子どもだましのようなもので、安倍晋三が生来の友と頻繁に会いながら何の便宜も計らなかったとはとても考えられません。更に、サクラの会問題ではホテル側が破格の料金で対応したとされていますが、実際はホテル側が政権に不利な情報を提供した場合のリスクを避けるためそのような形にしたことは容易に推察できます。検察側がメスを入れようとしても、様々な策を弄してそれを阻もうとすることは見え見えです。

一口に言えば、
安倍夫妻の場合は「脇が甘かった」ために、真相ははっきりしないが印象としては黒に近い灰色と受け取られる場合が目立ったのです。特に昭恵氏の場合は、天真爛漫さが災いして首相夫人という自らの立場を省みない言動がしばしばあり、それが恐らく夫の安倍晋三には悩みの種だったことでしょう。中でも、夫妻が揃って森友学園での皇国史観に基づく教育(狂育)を賞賛したことは本来なら大きな問題になるところですが、残念なことに国有地売却の金額に関しての追及だけになっています。いくつかの罪は背負っていても、籠池氏の言い分も決して全てがウソではないというのが実感です。

=強硬姿勢が目立つ菅政権=
ひるがえって新しい
管政権の政治姿勢を見るときそこには前政権との大きな違いが見られます。一口に言えば、批判を恐れず「強行突破」を辞さないということです。任期が僅か年ということもあって、短期間に実績を挙げることを焦っているようにも見えます。コロナ禍で明らかになった日本のデジタル化の遅れを取り戻すためのデジタル庁の新設、特に声高に述べている携帯電話の通信料金値下げ、これらはどちらも大いに結構です。しかし、問題とされた日本学術会議会員の任命問題に関しては全く不可解でとても理解できません。6人を任命から除いた理由を未だに明らかにしないのは、やはり彼らが政権側の意向に反する発言をしていたからだと受け取るのが自然です。

このような独善的なやり口は、民主主義とは真逆の方向である「政権の意向に逆らう者は排除する」という姿勢であり、「異なる意見でも少数意見でも尊重して、より良いものを見いだす」という民主主義の本来のあり方に全く反するものです。

=過去の夢となった科学技術大国=
現在では影が薄くなっているとはいえ、いやしくも「科学技術大国」を目指していたはずの日本で、このような手法がまかり通るとしたら国の将来までも危うくしてしまいます。たださえ、
この国では目先の利益を生み出すものにしか関心が向かず、最近のノーベル賞受賞者が何度も警告している「若い研究者に対して、基礎研究に集中できる環境(時間的、金銭的)を・・・」にも積極的に耳を傾けようとしていません。優れた業績でノーベル賞を受賞した人々は、それまでの数十年間にわたる地道な研究の蓄積が元になっていることを、少しでも考えてみてほしいものです。総じて、日本の政界や経済界は、「すぐにカネを生み出す活動」にだけ目を向ける傾向が強く、将来世界に広がってゆく可能性がある研究などには着目しないように感じます。既に様々な統計にも現れているように、学問や技術の分野でも日本はいわゆる先進国の中でも低い水準に落ち込んでいます。このままでは近い将来人口減少に伴う活力の衰退もあって世界での存在感が今以上に薄れてしまうように思えてなりません。派手な活動にだけ目を向けず、長期的なビジョンに立って学問や教育に力を注ぐことが大切ですしっかりした基礎を造らずにやたら結果だけを求めるのでは、底の浅い小手先のものしか得られず長く役立つ大きな果実は絶対に得られません

=脅迫を武器に独裁政治をもたらす内閣府=
「政治主導」の名の下に強化され過ぎた内閣府のあり方が、様々な弊害をもたらしているように感じます。今回の学術会議問題での6人の任命拒否もどうやら内閣府の杉田某によるものらしく、権限のない人間にこのようなことを許す内閣府の体質に大きな疑問が涌きます。前政権時の欠陥マスクの配布も側近の一声で決まったとか・・・。要するに、身辺にお友達や手なづけたお気に入りを集めて勝手放題をやらせるのが、この国のボスの体質なのかも知れません。能力的には彼らより遙かに優れていると思われる官僚集団に、有無を言わさぬ人事権を振りかざした脅迫をもって対するとは、何と思い上がった人種がこの国を支配しているのでしょう!

また、管氏は就任直後に官僚組織に対して政権の意向に従わない者は異動させると明言していましたが、これでは前政権時にもまして官僚の萎縮を招くことは必至で、善意や真面目さからの疑問や提案をも不可能にしてしまう愚かな振る舞いとしか言いようがない手法です。

他の様々な場面でも、コロナワクチンの接種方式のように公式には「自治体の裁量に任せる」と言いながら裏では「対応の仕方で評価する」という狡猾なやり方が取られる場合があり、これからも色々な場面で続くような気がします。残念ながらことわざとは逆に「驕れる者久しい」この国の政界では、これからも次々に不可思議な出来事が見られることでしょう。

連休直後に
感染者が急増していた沖縄への仕打ちも大きな問題です。辺野古の問題を筆頭に何かと政府に批判的な知事を持つ沖縄には、官僚に対するのと同様しっぺ返しに徹するつもりなのでしょう。そもそも、今回の感染者急増の原因は医療施設が貧弱な沖縄に連休を利用して多くの観光客が訪れたことで、そのような観光客がウィルスをまき散らしたことは間違いありません。人々にそのような行動を促したのは他でもない政権の中途半端なコロナ対策であって、小さな島々の集まりである沖縄に感染拡大の責任など全くないのです。

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81 政権は一体何のためにオリンピックを強行するのか   (21.7.1 追記) 

オリンピックの開催は今では既定事実
となっています。コロナの感染状況を見ればとても安心できる段階とは思えないのにです。開催は無理と見る大半の国民への意識改革を狙っているのかも知れません。確かにお祭り騒ぎの大好きな日本人なので、実際に開催されれば危険極まりない現実を忘れて夢中になることもないとは言えないでしょう。

どちらかと言うと政府寄りに見えて存在感の薄かった
政府分科会の尾身会長が従来とは全く異なった強い口調でオリンピックの開催に関わる危機意識を表明してからだいぶ経ちました。「世界中がコロナウィルスの蔓延で苦しんでいるこの時期にオリンピックを開催するのは普通ではない」との論旨は全くその通りで、多くの国民がひたすら突っ走る政府やオリンピック組織委員会などの動きに疑念を抱いている理由の根源です。更に、「このような状況の中でオリンピックを開催するのなら、強い覚悟を持ってやってもらう必要がある」とも述べ、オリンピックの開催を機に感染が拡大した場合に政府には責任を取る覚悟があるかと迫っています。、こうした尾身氏の専門家としての責任に基づく追及に対しても、国会での菅氏の説明には全く説得力がなく、相変わらず「新型コロナ対策を徹底することで国民の命や健康を守り、安全安心の大会を実現する」と、厳しさを増すばかりの現実への認識など全く感じられないスローガンを繰り返しています。

検査態勢の充実には当初からずっと背を向け、ワクチン開発などには無関心、後手後手の対策で感染者が増加しても医療関係への支援には一向に熱意を示さなかったのが現政権です。さすがに第二自民党(公明党)の幹部でも今回の尾身氏の発言は重く受け止めているというのに、自民党内には「(尾身氏の発言は)言い過ぎだ」との声もあるとか。冗談ではない、世の人々の言いたいことを正直に代弁しただけでしょう。まだまだ言い足りないくらいだと言うのに、彼らはまともに事を認識できなくなっているように見えます。感染症の知識がどの程度あるか疑問な政府の首脳陣、とりわけ菅氏の頭にあるのは何としてもオリンピックを開こうとすることのようで、それを阻むものは全て排除する頑なな意思が感じられます。

そもそも、
このオリンピックは招致の段階から“黒い霧”に包まれていました。シンガポールの怪しげな仲介者に多額の報酬を与えた疑惑に始まり、エンブレムの盗用問題で揺れ、森氏の女性蔑視発言開閉開式の演出問題など、およそ本来オリンピックが示すべき健全な姿とは正反対の醜い姿を全世界にさらしてきたのです。それでも無理矢理開催するのはまさかヒトラーを真似た「国威発揚」が目的ではないでしょうが、今までの成り行きから既に国際的な信用は地に落ちていると言ってもいいように思えてなりません。

以前にも書きましたが、
オリンピックが年々巨大化したことが原因で開催できる国が財政面で豊かな一部の国々に限られてしまっている今、日本が取るべき道はコンパクトなオリンピックのモデルとなることではなかったのかと思うのです。そうすれば、途上国でも(場合によっては何カ国かの共同開催の形で)オリンピックを開催できるようになり、世界人類が心を一つにする機会がより多く持てるようになるはずでした。

しかし、
巨額に上る財政赤字を抱えるこの国が取ったのは従来以上に規模の大きい姿でした。その上ぬけぬけと「復興五輪を目指す」とのたまい、実際は未だに様々な差別を受け原発の汚染水問題などにさらされている被災地の苦しみなど無視して、資材も建設業者も東京に集中させてわざわざ新しい国立競技場の建設などにうつつを抜かしました。当初の予算額を遙かに超えても何ら反省や弁明の言葉もなく、最後は国民から税金を巻き上げればいいという厚かましくも恐れ入った態度です。

アスリートが世界の強豪と競う機会を求めるのはごく自然な姿だと思います。しかし、一見爽やかさを感じさせるオリンピックの裏でうごめく利権漁りの醜い連中の駆け引きに踊らされる国民は、全く蚊帳の外に置かれてきました。どのようにコロナを制御してオリンピックを安全に開くのかなど肝心のことは知らされず、彼らには痛くもかゆくもない行動制限などの不自由に耐えさせられてきたのです。政府もJOCも、最初からどんな状況でもオリンピックを開催すると決めてかかっていて、コロナウィルス感染症がどんなに人々の命を奪い生活を破壊しても一向に構わない意向のようにさえ見えてしまいます。政権や組織委員会関係者には、よほどメリットがあるのではないかとさえ思わざるを得ません。

日に行われた党首討論でも菅氏は相変わらず質問には真っ正面から答えようとせず、現在とは全く状況の違う前回オリンピックの思い出話でごまかしていました。最大の問題点である「このような状況の中でどうしてもオリンピックを開催しようとする理由」には頬被りのままです。こんな無責任な人物に二度と戻ることのないその日その日の生活を左右されているのは、日本人にとってこれ以上ない不幸なことだと思います。

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 82 私の疑問 その3 (呪われたオリンピックへの思い)    (21.7.24) 

今回のオリンピックが招致段階から極めて不名誉な買収疑惑に包まれていた
ことは前項に述べた通りです。その後もこれでもかこれでもかと幾つもの問題が起こり、招致に躍起となった安倍晋三をはじめ最近の問題発言で組織委員会会長を辞めた森喜朗まで、招致に深く関わった人物は全て姿を消してしまいました。その上、更に追い打ちをかけるように大会の花である開会式の演出に大切な役割を果たすはずだった小山田、小林の両氏が、よりによって直前に辞職することになったのです。小林氏の犯罪とも言える行為や小山田氏の深刻な悲劇までも笑いの種にしてしまう愚かな行為は、目立ちさえすれば良しとする哲学不在の昨今の日本社会のあり方の象徴でもあります。

専門家が繰り返し警告しているばかりか一般の人々も恐れおののいていた
コロナウィルスの感染爆発が、いよいよ現実のものとなってきました。東京都をはじめとする首都圏の感染者激増は、夏休みという時期的な条件もあって必ず地方にその影響が及ぶでしょう。長期間にわたって自粛を続けてきた人々がとうとう我慢の限界を越して様々な望ましくない行動に走るのは、いくら抑えようとしてももはや難しいように思います。特に行動的な若い世代にさらなる我慢を強いても、後手後手に振り回されてきた過去への思いから従う気持ちになるはずがありません

私は見ていませんが、開会式では日本独特の文化の紹介も狙って様々な企画が生かされたようです。そのこと自体は大いに結構なことだとしても、
世界中に広がるコロナ禍の中で無理に開催されたことに対する疑問と危惧は、国内、海外を問わず人々の心から消え去ることはないでしょう。お祭り騒ぎに飢えてきた日本人が一時的にオリンピックに酔いしれることは十分考えられますが、全てが終わって悲惨としか言えない現実に戻った時、巨費を投じて無理矢理開かれた今回のオリンピックがいかにはかない夢に過ぎなかったかにということに、嫌でも気づくに違いありません。何しろ巷ではコロナ感染が日々広がり医療態勢の逼迫が現実のものとなる確率が極めて高いのです。度重なる宣言で経営が行き詰まっての廃業、職を失って日々の生活さえ困難になってしまった少なからぬ人々の目には、オリンピックの華やかさはむしろ憎しみの対象として映ることでしょう。

巨額の放映権料を逃したくないIOCのバッハ会長と、オリンピック開催を自らの手柄として総裁選で勝ち政権を再度担いたい菅氏の利害が一致した結果、まともに考えれば無謀極まりない「強力なコロナウィルスの支配下でのオリンピック」がとうとう実際に行われることになってしまったのです。科学的データに基づく専門家の警告に全く耳をかすことなく、感染拡大への恐れから開催を危ぶむ多くの人々の声をも無視して、経過次第では全国がコロナウィルスに蹂躙され兼ねない危険を冒してオリンピックを強行したのがこのような一握りの権力者の利益を守るためだったとしたら、これほど理不尽な事はありません。散々聞かされた「安心安全の大会」「コロナに打ち勝った証」など、全く現実からかけ離れたスローガンだったのです。

要するに、
彼ら特権階級は市井で懸命に生きる人々の生活への認識など全くなく、大震災から10年経ってもなお苦しい立場に置かれたままの人々が少なくない東北、とりわけ福島をダシにした「復興五輪」の呼称は詐欺同然としか言えません。バッハ会長の広島訪問も単なるジェスチュアに過ぎないのはもちろんです。それでも、お人好しの日本人、「政治は別世界の出来事で自分には直接関係ない」と思っている多くの人々は、性懲りもなく散々勝手放題を繰り返してきた巨大与党に選挙では投票するのです。これこそ、この国の民主主義が全く形ばかりの「与えられた民主主義」であることの証です。前にも書きましたが、私にはこの国は「成熟した民主主義国」とはほど遠い「熟することなく腐りかけているエセ民主主義国」であり、安倍、菅による事実上の独裁政治にも全く気づかず、羊の群れと似た従順なお人好しが集まった国しか見えないのです。

昨今のオリンピックがクーペルタンも卒倒しそうな商業主義に支配されたものになっていることは、心ある人々ならば容易に理解できることでしょう。今回の場合も、高温多湿の最悪の時期になったのはアメリカのスポーツ関係やメディアの都合が優先された結果だとか。不自然な競技時間の設定も同じ理由からと聞きます。手段を選ばずカネを得ようとするゆき過ぎた商業主義は、何事においても本来の姿をゆがめてしまうのです。

 
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 83 無謀な祭典の裏でほくそ笑むコロナウィルス   (21.8.1) 

=逆効果を招くかも知れない非常事態宣言=
またまた効果が望めるとは思えない非常事態宣言が東京に隣接する県などに発出されました。繁華街等の人出が一向に減らずそれが原因の感染者急増が現実のものとなった場合、普通なら「非常事態」と唱えられるだけで人々は緊張を新たにしてできる限りの感染予防対策に努めるものです。しかし、現在の状況下で菅氏が言う「人流の減少」はクルーズ船に始まったおざなりのコロナ対策の正当化に過ぎないものにしか思えません。また、特に若い世代はコロナウィルス感染症を軽く見ている傾向が強く、中には単なる風邪の一種だというような軽い受け止めをしている者もいると聞きます。感染力の極めて強いデルタ株への警戒心も薄く、今後どうなりそうかという想像力も欠けているようです。

実のところ、若者だけでなく
国民の誰もが一年半もの長期間にわたって不自由な毎日を過ごしてきた訳で、その我慢もとうに限界を超えていることは明らかです。こういう私でさえこれだけ長期間ハイキングにも出掛けられないことにはとうにうんざりしていて、人の少なそうな場所を選んで行きたくなるほどです。

昨夜久しぶりに
記者会見の模様を見たものの内容はやはり予想通りの物足りないものでした。菅氏の発言内容は総じて自己弁護的なものが多く、「人流は減っている」「ワクチン接種の進捗によって感染者(特に高齢者)は減少している」など自分に好都合な部分だけを強調し、オリンピックの強行が招いた人々の気持ちの緩みが日常行動の変化をもたらしている事実には全く触れませんでした。非常事態宣言を繰り返すたびにその効果が薄れていく原因自らの危機意識のかけらもない態度にあることの認識など少しも感じられません。官僚集団を人事権掌握で威嚇して折角の能力を生かそうとせずイエスマンだけで固められた内閣府では、頑なな姿勢を改めようとしない菅氏に面と向かって忠告する人間が現れるのを期待しても無駄でしょう。この有様を見て思い出すのは、以前TVのニュース番組で見たドイツのメルケル氏の心の底から絞り出すような切実さに満ちた国民への訴えですが、残念ながらちらちらと原稿を見ながらパターン化した台詞を述べるだけの菅氏にはその真似すらとても無理だと思います。

=オリンピックの本来の姿とは=
予想通り、
実際にオリンピックが始まった途端、その開催に疑問を持つ多くの人々はものを言いにくくなってしまいました。TVの番組表は早朝から深夜までオリンピック関連で埋まり、日本選手が登場するたびにアナウンサーの絶叫が鳴り響く毎日です。そもそもオリンピックは本来「選手個人個人が力と技を競う場」であるはずで、決して国と国がメダル争いを繰り広げる場ではないのです。従って、表彰式で国歌を演奏する必要は全くなく、メディアが躍起となって国ごとのメダル獲得数を報道する必要もないのです。要するに、「日本が金メダルを取った」という表現は間違いであって「誰それが金メダルを取った」とするのが正しいのです。現在のような形になってしまったのがいつ頃かは知りませんが、このような方式がナショナリズムの高揚に貢献することだけは確かで、かつてヒトラーがベルリンオリンピックでそれを実証しました。

=村社会から抜け出せない日本人=
日本人には以前から「皆が同じ方向を向いて同じことをするのが最も良い」という価値基準が根強くあり
ますが、これは場合によっては利があるものの「出る杭は打たれる」ように突出した能力を持つ人間の成長を妨げたり、低次元での横並びを招くなど望ましくない側面もあるのです。日本人には、意識無意識を問わず相変わらず「個人は全体の部品」=「大きな流れには逆らわず黙ってついていくべき」という考え方が根強く存在していて、個人が自由に発想し発言することにある種の垣根を設けてしまう傾向が強いように思います。ある番組で常に中身の充実した立派な発言をするコメンテーターが脅迫メールを送られたりしているそうですが、特に「(いわゆる)偉い人やその属する組織」への批判がその対象になることが多いそうです。何世紀か前のままの「お上意識」が決して消えることなく、DNAの一部として世代を超えて残っているのではないかと思います。

また、
ネットに「オリンピック開催に反対しながらなぜオリンピックの放送を視聴するのか?」という意見が載っていました。菅氏の「反対するものは排除する」姿勢にもそのまま通じるものです。開催を批判することと放送を視聴することとは全く別の問題で、この論法でいけば「原発に反対する者は原発由来の電気を使うな」ということになります。立場上の矛盾がないとは言いませんが、会社に籍を置くからといって会社の不正を告発してはいけないとは言えないのと同様、自らが置かれている逃れられない環境にもし問題点があれば批判するのは当然の権利です。それができなくなったとき、その組織や国はもはや民主主義的存在ではなく全体主義の集団になってしまうのです。
 
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 67 データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性  (19.6.14) (21.1.31 追記)

最近の新聞の投書欄に掲載された車の効用についてのアンケートタイプの感想を見ても、日本人の車に対する執着の度合いは並大抵ではないようです。必要な時に様々な要求にすぐ応えることのできるのが車であり、その気持ちは私にもよく理解できます。明治維新後の数十年間で先進国もどきに成長したとはいえ、実際はまだ物心両面で途上国並みの部分が色濃く残っているのがこの国だと思います。従って、太平洋戦争の敗戦を契機に世界一豊かなアメリカ人のライフスタイルへの憧れが異常に強まったのも当然で、その一つが車を所有することへの強い欲求でした。

ここでは、そのような
日本人の車中心社会への盲目的崇拝傾向が決して世界に共通のものではないことを示すため、客観的なデータを並べて分析してみました。
 
自動車事故による死亡者数の推移と自動車に関する国ごとのデータ 

鉄道や航空機など他の交通機関に比べたとき桁違いに多い自動車事故での死者数
が1970年度の16765人をピークにほぼ減り続け、1996年度に初めて10000人を割ったのち今世紀に入ってからも年々減少の一途を辿って、2019年度には過去最少の3215人となりました。しかしそれでも見逃してはならないのは、これだけの人命が失われるだけでなく死者一人一人に関わる家族や知人など周辺の人々の生活環境を、物理的にも精神的にも激変させてしまうという重い事実を軽視してはならないということです。

2017年に起きた
東名高速道路でのあおり運転事故に関しては、子どもたちの目前で両親が命を奪われるという悲劇的な状況に圧倒的多数の人々の怒りが爆発し、これを契機に事故原因と適用する罪の軽重の関係が議論となって、以後の同種犯罪に対する裁判での対応にも大きな影響が及ぶようになりました。

ここでは、このような
自動車事故の起こりやすさ(起こりにくさ)の原因の一端になるのではないかと思われるデータを、欧米各国との比較の形で示してみました。可能な限り新しいデータを用いましたが、部分的にはやや古いものや概数のものも含まれています。

表中に示されている
可住地」とは「居住が可能な地」、つまり人間が(特別な装置や装備を必要とせず)普通の状態で住むことのできる土地を言います。
 
   面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 日


 本
 
  377972
  114622

  (30.3%
 
 12748

   337.3
  1112.2
 
   77750520

   61403630
   16346890
 
 60.99

 48.17
 12.82
 
 205.7

 162.5
  43.2
 
 678.3

   535.7
   142.6
 
 ア
 メ
 リ
 カ
 
 9525067
 6103372

  (64.1%
  
 32446

    34.1
    53.2
 
  270566332

  123552650
  14701368
 
 83.39

 38.08
 45.31
 
  28.4

  13.0
  15.4
    
  44.3

    20.2
    24.1
 
 ド
 イ
 ツ
 
  357121
  237810

  (66.6%
 
  8211

   229.9
   345.3
 
   49286000

   45804000
    3482000
 
 60.02

 55.78
  4.24
 
 138.0

 128.3
   9.8
 
 207.2

   192.6
    14.6
 
 
 面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

  
 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 フ
 ラ
 ン
 ス 
  551500
  387640

  (70.3%
 
  6498

   117.8
   167.6
 
   39118000

   32390000
    6728000
 
 60.20

 49.85
 10.35
 
  70.9

  58.7
  12.2
 
 101.0

    83.6
    17.4
 
 イ
 タ
 リ
 ア 
  301336
  201870

  (67.0%
 
  5936

   197.0
   294.1
  
   42699954

   37876138
    4823816
 
 71.93

 63.81
  8.13
 
 141.7

 125.7
  16.0
 
 211.5

   187.6
    23.9
 
 ス
 イ
 ス 
   41277
   27554

  (66.8%
 
   848

   205.4
   307.8
 
    4999271

    4524029
     475242
 
 58.95

 53.35
  5.60
 
 121.1

 109.6
  11.5
 
 181.4

   164.2
    17.2
 
 
 各項目ごとの、日本と他の5カ国とのデータの比較
 
  T 日本と他の5ヶ国との数値の比較 

    @ 
国土の総面積に対する可住地面積の割合が、日本は他の5ヶ国の半分以下
    A 
国土全体の人口密度は、アメリカの10倍、フランスの3倍、他の3ヶ国のおよそ1.5倍
    B 
可住地の人口密度日本が群を抜いて高くアメリカの20倍、他の4ヶ国の3〜7倍
    C 
人口100人当たりの車保有台数は、ドイツ、フランス、スイスと同程度でイタリアよりやや少なく、アメリカの70%
    D 
国土面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜いて高くアメリカの7倍、フランスの3倍、ドイツ、イタリア、スイスのおよそ1.5倍
    E 
可住地面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜きドイツ、イタリア、スイスの3倍以上、フランスの7倍近く、アメリカの15倍

  U Tの結果から分かる日本の自動車事情の特殊性

    @ 広大な国土を持つアメリカは別格として、
日本とほぼ似た面積を持つドイツやイタリアに比べて可住地の人口密度が3倍以上という事
      実
は、日常生活の範囲で周囲に人の存在を感じる度合いが3倍以上ということになります。しかも、実際は人口の偏在が進行している
      現在では
大都市周辺での混雑が尋常ではないことを意味しています。
    A 人口100人当たりの車保有台数にはさほどの差はないものの、早くから車中心社会であったアメリカがやや多くなっているのは至極当然
       のことと言えます。
    B 
問題は単位面積当たりの車保有台数です。国土全体で見ても、自動車産業の先輩であるドイツやイタリア、フランスを遙かに凌ぐ数値
       を示しています。
最も実態をよく表しているのは表の印「可住地1km当たりの車保有台数」であり、その異常な多さが日本の自動
      車事情の特殊性を如実に表す決定的なデータ
です。可住地、つまり「人が生活の場として活動している地」に存在す車の台数が、
      メリカの15倍、それ以外の国々の3〜7倍もある
ということなのです。ごく単純に計算すれば、「38m四方の土地に1台の割合で車が存
      在している」ということ
なのです。しかもこれは住宅などの建物も含めての数値なので、実際にはもっと狭い土地を車一台が占拠していること
       になります。
都市も地方もひっくるめてこの数値になるのは驚くべきことだと言えると思います。 

  V 交通事故の多発を招く諸々のこと

    @ 
日本で交通事故の多発を招いていると思われる要因の第一は、何と言っても前項UのBに示されたように「人が生活の場としている
      土地=可住地」当たりの車の台数が際立って多いこと
に尽きます。国土が広大なアメリカは別として、ヨーロッパ各国に比べて生活圏
       の車の台数が3〜7倍も多いのでは、自動車事故が起こらない方がむしろ不思議と言っても過言ではない
でしょう。
    A 高速道路などの自動車専用道路を除けば、
大都市以外の地域での一般道路は概して道幅が狭く、歩道の設置されている区間は限
       られ
ています。また、歩道があっても歩行者の安全を確保するためのガードレールがなかったり、電柱などの障害物で安全な歩行が難し
       い箇所も少なくありません。更に、車道は平坦でも歩道は工事の後始末さえ不十分で凸凹だらけというのが実態
です。結局のところ、
      本では人命の保護よりも自動車交通の円滑さを優先させるのが半ば常識とされている
とさえ言えます。このことは、自動車事故での死
      者のうち歩行者の占める割合が日本は36%であるのに対し、アメリカやヨーロッパ各国では15%程度であることにも現れて
います。
        ※ 以前から問題とされている(特に若者による)自転車事故の増加に関しては「自転車も車両(軽車両)だから車道を走るべきだ」
          とよく言われます。これを錦の御旗のようにのたまう
国交省の官僚たちは実際に路側帯を自転車で走ったことがあるのでしょうか?
          
彼らは恐らく東京などの大都市のきちんと整備された車道しか認識していないのでしょう。
    B 
交通ルール遵守の意識が希薄な運転者の増加も目立っています。交通法規に盛られているのは他の運転者や歩行者のために最低
       守るべきものですが、それすら無視して事故を起こしたり誘発したりする例があとを絶ちません
。東名事故のような悪質なものは別としても、
      
日常的に行われているルール違反の中にはいくつか無視できないものもあります。特に目立つのは次の二つです。
        ○ 
適切な車間距離の確保がほとんどされていません。あおり運転のような犯罪的な行為は論外ですが、一般の運転者でもこの点
           についてはあまり深く意識していない
ように思います。車同士の事故が起こるたびに必ずと言ってよいほど付随する玉突き衝突の
          根本原因がこの点にあることは明らか
です。制動距離、つまり「ブレーキを踏んでから停まるまでの距離」は(速度)に比例する
          で時速100kmの場合の制動距離は時速50kmの場合の制動距離の2倍ではなく2の4倍になるのです。
車間距離を適切に取
          っていれば事故も起きずスムーズに走れる
のに、先を焦って車間距離を詰めた結果事故に巻き込まれて命の危険や時間のロス
          を招くのは、本当にバカげているとしか言いようがありません。
        ○ 
信号機のない交差点では「右大回り左小回り」が原則であるのに、それを知らない運転者が多過ぎます。
           車には必ずある内輪差を考えれば、右折レーンのない交差点では右折のときはできるだけ大回り、左折のときはできるだけ小回りを
           心がけるのが事故の発生を防ぐための方策です。しかし、教習所で教えられていないのかこのことを知らない運転者が非常に多
           いように感じます。見通しの利かない交差点での右左折で起こる事故の多くはこのことが原因であることは間違いないでしょう。
        ○ 
何よりも見過ごせないのがドライバーに歩行者を優先させる意識が非常に薄いことです。特に、信号機のない横断歩道を歩
          行者が渡ろうとしても、停まってくれる車は(私の日常の経験では)1/10程度
に過ぎません。最近その実態が報道でも取り上げ
           られていますが、長野県の68%は立派としても多くは10〜20%程度に過ぎません。
このことはマナーではなくルールであり違反す
          れば処罰を受ける行為と認識されるきっかけになればと思います。端的に言えば、
車の普及で年々増え続けてきた日本のドライバ
         ーの心には、車優先の意識が根強く植え付けられてきたように思えてならない
のです。
            ※ ヨーロッパを歩いた経験のある人なら分かると思いますが、このような光景はほとんど見られません。観光大国のスイスなど
              は、横断歩道に人影が見えるだけで車は遙か手前から減速し、人が渡りきるまでは停車して待っています。 
    C 
このほかにも事故を誘発しがちな事柄がいくつか考えられます。例えば、ながら運転に見られるような「車は走る凶器」であることを忘れた
       緊張感を欠く運転
も決して少なくありません。停車中の他の車を追い越す際の注意不足も含めて、常に周りの状況に合わせた運転の仕
       方に気を配ることの大切さを忘れた運転も目立ち
ます。

   W ヨーロッパ諸国と日本との交通事情の違い

     @ 敗戦後、
日本人の多くはアメリカ人の豊かな生活に憧れてひたすらその後を追ってきました。白黒TV、洗濯機、冷蔵庫に始まった「三
       種の神器」も、高度成長期はカラーTV、クーラー、自家用車の3Cに変わったのです。
人間が豊かさを求めるのはごく自然な姿には違
       いありません
問題は「日本とアメリカの極めて大きな国情の違い」です。上の表からもはっきり分かるように、国土の広さや人口密度、と
      りわけ可住地の状況が極端に違い
ます。国土全体の人口密度はアメリカの10倍、可住地に限れば20倍以上です。そこに乗用車に限
      ってもアメリカの半分の車が走っている事実を見れば、それがどれほど異常なことかは誰にも分かる
と思います。可住地に存在する乗用
      車の密度はアメリカと比較すれば何と25倍以上
なのです。その結果として、どんなに狭い路地にも車が入り込んでくる有様は、とても正
      常とは思えません

    A 
ヨーロッパ諸国と比較してみると、日本の特殊性が更に際だって見えてきます。国土面積が似通ったドイツやイタリアでも、可住地
       の車密度は日本のほぼ1/3であり、やや広いフランスの場合は日本の1/6以下
です
車密度の高さが事故の可能性を大きくする
      
ことが十分予測できる以上、ここでも日本の車密度、言い換えれば「感覚的な車の多さ」の異常さが明らかになってきます。
    B 
もう一つ注目したいのは車保有台数の内訳です。国土が非常に広いアメリカでは乗用車よりもトラックやバスの台数が上回っています
       が
ヨーロッパ諸国を見るとトラックやバスの台数は乗用車に比べて桁違いに少なくなっています。理由として考えられるのは「貨物輸送
       が環境に優しい鉄道に大きく依存している」
ことです。
     C 
ヨーロッパではたいていの都市には路面電車が走っていて、多くの市民が日常的に利用しています。しかも、多くは乗り降りしやすい低
      床車の長編成(4〜6両)で、市内くまなく路線が張り巡らされているため非常に便利
です。日本でも広島や富山など地方都市では路 
      面電車の整備が進んでいますが、大都市では自動車交通を優先させる方針から路面電車はほとんど見られなくなってしまいました。 
       
ヨーロッパではこのように路面電車が生活の便利な足にもなっているため、車に頼り切る考え方が存在しないのです。
     D Cでも分かるように、
日本とヨーロッパ諸国では交通というものに対する考え方が正反対なのです。日本では効率が最優先であり何よ
      りも速いことが重視され
ます。しかし、ヨーロッパでは効率をある程度下げても環境への負荷の低減を優先させる考え方が大切にされ
      ている
のです。私も時折見かけましたが、ヨーロッパの観光地でほとんどの人々がゆったりと構えている中でセカセカ動き回っているのは
      たいていが日本人でした。日頃から「速いことが一番」と焦る習慣が抜けきれず、特に急ぐ必要がない場面でもそうしてしまうのでしょう。

  X 高齢者が起こす相次ぐ事故の背景にあるもの

    @ 最近は
高齢者による事故の話題が世間を賑わすことが多くなりました。原因のほとんどはアクセルとブレーキの踏み間違いですが、メー
      カーは構造上の問題があるとは認識せず抜本的な対策を施そうとはしません。加齢による能力の低下が踏み間違いの唯一の原因であ
      るとの立場です。 
    A しかし、
根本的にはWで述べたようにこの国の異常極まる車密度の高さが真の原因であり、残念ながら今となってはこれを改善するのは
      事実上不可能
と言わざるを得ません。その根底となっているのは、数十年間にわたる国の交通政策の間違いとしか思えません。
    B このように
人々が車というものに過度に依存するようになった原因は色々あるでしょうが、一つには輸出による外貨獲得の主役となった自
      動車産業を国や経済界が手厚く保護し過ぎたことにあると思います。そこには、
近い将来国内の交通事情がどうなるかへの配慮や疑 
      問が介入する余地はなく、GDPが増えることしか国や経済界の関係者の脳裏にはなかった
のではと思います。
    C 更に、大地震などの甚大災害の際には国の存亡にも関わりかねない東京一極集中をやみくもに進めた結果、地方では中心都市です
      ら商店街のシャッター通り化が進み、大型店が進出してもほとんどが車でないと行けない郊外になりがちで、
高齢者でも危険と知りつつ
      運転せざるを得ない状況
が生じています。車なしでも買い物やその他の日常活動が可能なコンパクトシティが話題になったのはつい最近
      ですが、時既に遅しというのが実感です。要するに、
ここまで車が人々の日常生活に密着してしまっては手の打ちようがないとしか言いよ
      うがありません。
    D 最も目立つのは、
この国の政治家には公共交通を守ろうという姿勢がほとんどなく、ヨーロッパ諸国のような公共交通優先の考え方が
      全く欠落している
ことです。地方の鉄道会社やバス会社は車の増加に伴って経営が苦しくなり、路線の縮小や減便、やがては廃止へ
      と進むことが多くなっています。そのため、
高齢者は車の運転をやめたくてもやめられず、いつ遭遇するかも知れない事故への恐怖ととも
      に生きている
のです。
       
 私の決断、車との(世の常識では恐らくあまりにも早過ぎる)決別

私は70歳の誕生日を期して車の運転から完全に“足を洗い”ました。40歳くらいまではまだ幼かった子どもを別に暮らしていた母に日中だけ預けなければならず、また、その後住むようになった新興住宅地には駅までの交通手段がなかったため、やむを得ず車を使用していたのです。しかし、数年後に住宅地から駅までの路線バスが開通して、通勤には車を使う必要がなくなりました。バスの本数は1時間に朝夕は4,5本、日中は2,3本ですが、これだけあれば十分です。

元々好きではなかった車の運転をできるだけ早くやめたいと思っていた私ですが、この頃になるとマナー以前のルールさえ無視するドライバーが少しずつ目立つようになり、このままではいつか大事故に巻き込まれるのではないかという恐怖心が高まってきました。普段の通勤に車が欠かせない状態からは解放されましたが、仕事の関係から時折は不便な地域への出張に使わざるを得ないこともあって、まだ車は残してありました。

しかし、退職してからは精々バスでは行けないスーパーへの買い物に出掛けるくらいでしか車を使う機会はなくなり、
区切りよく70歳の誕生日で車と絶縁することに決めました。まだ車自体はしっかりしていて車検も済ませたばかりでしたが、そんなことは二の次の問題で一日も早く事故の加害者や被害者になる危険から脱出したくなっのです。こうして車から離れたときの爽快な気分は表現のしようもないくらいでした。多くの人々のように鼻歌気分で車の運転を楽しめず始終緊張状態を強いられていただけに、それから解放された喜びは運転好きの人々には到底理解できない心の動きに違いありません。私にとっての車は、いつ自分自身、ひいては家族をもどん底に突き落とすかも知れない怖ろしい厄介者だったのです。

車から離れて以後は、91歳になった今までずっと買い物などは自転車と徒歩で済ませています。若い頃からずっと人混みが大の苦手だったため、通勤時も含めてエレベーターやエスカレーターは余程のことがない限り使ったことがなく、恐らくそのためもあって足腰は人並み以上に強く、最近でも低山や渓谷などのハイキングを楽しんできました。コロナ禍の昨年からはそれができず本当に残念です。

確かに、
国の交通行政の無策から地方のみならず都市近郊でも公共交通の衰退が目立つようになり、人によってはどうしても車に頼らざるを得ない事情があるようです。しかし、少しでも可能性があるのなら、高齢者は一日も早く車の運転に決別することが自分自身にも家族にも安心をもたらすと思います。車に依存する日々が長く続けば続くほど、身体、とりわけ足腰は弱まっていきます。身体の老化を遅らせるためにも車への依存から早く抜け出す方が良いことは明らかです。長〜くなった老後を自分の足で送れるようにするためにも

新技術への疑問と危惧 

だいぶ前から
自動運転がもてはやされ一部では試運転もされていますが、これには多少懐疑的にならざるを得ません。詳しく調べた訳ではないのでごく素朴な疑問だけ述べて見ます。完全な自動運転のためには車の現在位置を正確に認識する技術が不可欠ですが、その場合は恐らくGPS衛星による機能が用いられるのでしょう。国産のGPS衛星の性能は非常に優れていると聞きますが、果たしてcm単位までの精度があるのでしょうか?都会地だけでなく田舎の農道や山岳地帯などの曲がりくねった道でも安全に走れるほどの機能があるのでしょうか?

それに、もし悪意を持った相手(人物 or 組織、国家)にGPS機能を乱されたら致命的な結果を招くというのは杞憂でしょうか?ましてや、GPS衛星を破壊されたら途端に道路交通は完全に麻痺してしまいますが、このような場合の対処方法はあるのでしょうか?物事は常に最悪の事態を予想しておくのが定石です。

これはまだまだ先だとは思いますが、最近話題になってきた
「空飛ぶ車」が実現したらこれはもう大変な危険を招きます。現在でも飛行機からの落下物が時々あって問題になりますが、その比ではなくなることは確かです。恐らく飛ぶコースや高度、スピード、時間帯などの規制は設けられるでしょうが、必ず意図的に無視する輩が現れるので人々は安心して眠ることさえできなくなります。いわば「三次元の恐怖」が出現する訳ですが、私の場合その頃には消えているでしょうからセーフということになります。

でも、こうして
人間が「より便利に、より楽に」を追求し続けていったら何がもたらされるのでしょうか?決してプラスだけではないと思います。
 
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