無名人の独り言

 

    このページには、私が日頃思うことを随時書きたいと思います。        
       ※  わざわざ「無名人」としたのは、有名人の言動にのみ過度に反応する世の風潮への大きな疑問からです。  
25 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に      73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  
75 隠蔽政権のあとは、極めつけの後手後手政権 8 官邸の権力乱用がもたらす弊害
9 私が日頃から感じている様々な疑問 その1  
   
67 データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性   
   
                     メールコーナー (感想・意見をどうぞ) 



25 戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に  常時掲載)

ゲームや映画では見ていても
実際に戦争を経験していない人々には、私がなぜこれまで安倍前政権を非常に危険視してきたか中々分からないと思います。そこで、いくつか述べてみることにします。

  
ここに注目を!!

 @ 
戦争は一般の国民が起こすのではなく、例外なく時の政府など権力者の主導によって引き起こされるのです。
 A 
戦争はいきなり起こるものではなく、必ずかすかな前兆から始まりそれが徐々に確かな形になっていくのです。
 B 
情報を隠したり積極的に人々に伝えようとしなくなるのは、やがて戦争へとつながる危険な兆候です。
 C 一旦
戦争が起きてしまえば人々は否応なく巻き込まれ、反対や抵抗は事実上不可能となります。
 D 
戦争で犠牲になるのは常に罪のない一般の国民で、自由は剥奪されて権力者の道具とされるのです。
 

このように書いても、
有り余る自由を手にした戦後の平和憲法下で戦争を身近に感じることなく生きてきた人々は「まさか戦争なんて!」と一笑に付してしまうに違いありません。私も参加した数年前の国会前での抗議集会でも、「戦争なんて起こる筈がないのに何を大げさに騒いでいるんだ!」という態度の人が少なくありませんでした。国会周辺でデモ行進をしてもそれに共鳴する雰囲気はあまり感じられず、見方によっては冷ややかとも受け取れました。

しかし、多くの知識人や憲法学者、元自民党の有力者たちまでもがこぞって反対した強行採決による集団的自衛権容認を突破口とする
安倍一派のやり口には、太平洋戦争の経験者の目には戦前の日本を彷彿とさせるものがあったのです。国民の目と耳をふさいで物事の真実を知られないようにしておき、その裏でどんどんと戦争への道を進めていったのがあの当時軍部が事実上支配していた政権です。国の動きに少しでも疑問を抱く言動には厳しい統制と国家権力による迫害処罰が行われるため、一般の国民が声を挙げることなどは到底無理な時代だったのです。【全体主義の世の中は現在のような有り余る自由を手にしている世の中とは異次元の世界】であり、現在とはとても比較にならない厳しい環境を強いられた時代なのです。

現在はまだ形の上では民主主義の時代であり、人々はどんなことでも自由にものを言ったり書いたりできます。こうして政府や権力者の批判も自由にできます。何事でもそうですが、普段何の制約もなくできることはいつしか当たり前のように思ってしまい、それがどんなに貴重なことなのか意識せずに過ぎてしまいがちです。

同じ「戦争」と言っても、
太平洋戦争は日本が自ら起こした戦争であるのに対し、私が今ここで強調したい「戦争」は「アメリカがいつか起こすであろう戦争に巻き込まれる形での戦争」です。広い意味ではもう既に「新しいタイプの戦争」であるテロ集団による攻撃の脅威に日本も巻き込まれているのです。コロナ禍の終息を夢見て開催を目指している今回のオリンピックは果たして無事でしょうか?オリンピックはテロリストにとってはまたとない美味しい標的の一つです。オウム真理教による地下鉄サリン事件でも分かるように、テロは攻撃する側が絶対的に有利な立場であり、いつ、どこで、どんな方法で実行するかはテロリスト側が自由に選ぶことができるのです。しかし、防御する側はいくら事前に対策を強化しても限界があり完全に防ぐことは不可能です。世界各地で起きてきたテロを見ればそのことは容易に理解できると思います。

「まさか戦争にはならないだろう」という楽観的な見方に頼りたいのが人間の自然な心理に違いありませんが、そう言い切れないのは
人間には時には理性を凌いでしまう“感情”という厄介なものがあるからです。

ページトップへ


 73 民主主義とは名ばかりのこの国の政治のあり方  (20.11.15)

7年8ヶ月続いた安倍政権が突然終わりました。史上最長とかもてはやされていましたが、
「山高きが故に尊からず」と同様「任期長きが故に・・・」であり、肝心なのはその間に何をしたかです。ご自慢のアベノミクスは、税制で優遇されている富裕層や大企業には多大な恩恵があっても、一般庶民や中小企業への施しは雀の涙程度に過ぎず、新型コロナウィルスの襲来でほぼ完全に破綻しました。外交面でもロシアや北朝鮮との関係には何ら変化が見られず、拉致問題も北方領土問題も全くと言っていいほど進展がなかったと言うしかありません。確かにコロナ禍は初めての経験であり多少の右往左往は致し方ないとも言えますが、最優先で手を打つべきPCR検査の拡充や医療現場の負担軽減策では、多くの人々がやきもきするほど心許ない有様に終始したというのが実態です。

最も問題なのは、安倍晋三が政権を握っている間に国のあり方を激変させる法案をいくつも成立させたことです。権力側のご都合次第で対象を指定できる特定秘密保護法案を皮切りに、平和憲法の根幹とも言える専守防衛から一部とはいえ集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法案、更に適用次第では国民の自由な言動を縛り兼ねない極めて危険な共謀罪法案と、大きな問題点を持つ法案を現在の選挙制度のおかげで転がり込んだ絶対多数を武器に度重なる強行採決で成立させてしまいました。これらの法案がやがて人々にどんな影響を及ぼすことになるか、誰もが注視していく必要があり非常に気がかりです。

また、前政権が残した
数々の疑惑、森友学園、加計学園、そしてサクラの会問題、それらのどれも全容解明とはとても言い切れないままです。森友に関する公文書の改ざんを強要されたあげく、死を選ぶことになった元近畿財務局職員の赤木さんの妻が起こした裁判も、検察幹部の人選にまで介入する事実上三権分立が存在しないこの国では、恐らく政権側にキズが付かないような配慮が優先されることでしょう。加計学園の場合は全く子どもだましのようなもので、安倍晋三が生来の友と頻繁に会いながら何の便宜も計らなかったとはとても考えられません。更に、サクラの会問題ではホテル側が破格の料金で対応したとされていますが、実際はホテル側が政権に不利な情報を提供した場合のリスクを避けるためそのような形にしたことは容易に推察できます。

一口に言えば、
安倍夫妻の場合は「脇が甘かった」ために、真相ははっきりしないが印象としては黒に近い灰色と受け取られる場合が目立ったのです。特に昭恵氏の場合は、天真爛漫さが災いして首相夫人という自らの立場を省みない言動がしばしばあり、それが恐らく夫の安倍晋三には悩みの種だったことでしょう。中でも、夫妻が揃って森友学園での皇国史観に基づく教育(狂育)を賞賛したことは本来なら大きな問題になるところですが、残念なことに国有地売却の金額に関しての追及だけになっています。いくつかの罪は背負っていても、籠池氏の言い分も決して全てがウソではないというのが実感です。

ひるがえって新しい
管政権の政治姿勢を見るときそこには前政権との大きな違いが見られます。一口に言えば、批判を恐れず「強行突破」を辞さないのではないかということです。任期が僅か1年ということもあって、短期間に実績を挙げることを焦っているようにも見えます。コロナ禍で明らかになった日本のデジタル化の遅れを取り戻すためのデジタル庁の新設、特に声高に述べている携帯電話の通信料金値下げ、これらはどちらも大いに結構です。しかし、今話題となっている日本学術会議会員の任命問題に関しては全く不可解でとても理解できません。6人を任命から除いた理由を未だに明らかにしないのは、やはり彼らが政権側の意向に反する発言をしていたからだと受け取るのが自然です。「総合的」「俯瞰的」などと具体性の見えない言明を何回繰り返しても、到底納得できるものではありません。また、管氏は就任直後に官僚組織に対して「政権の意向に従わない者は異動させる」と発言していましたが、これでは前政権時にもまして官僚の萎縮を招くことは必至で、善意からの疑問や提案をも不可能にしてしまう愚かな振る舞いとしか言いようがない手法です。

このような独善的なやり口は、
民主主義とは真逆の方向である「政権の意向に逆らう者は排除する」という姿勢であり、「異なる意見でも少数意見でも尊重して、より良いものを見いだす」という民主主義の本来のあり方に全く反するものです。現在では影が薄くなっているとはいえ、いやしくも「科学技術大国」を目指していたはずの日本で、このような手法がまかり通るとしたら国の将来までも危うくしてしまいます。たださえ、この国では目先の利益を生み出すものにしか関心が向かず、最近のノーベル賞受賞者が何度も警告している「若い研究者に対して、基礎研究に集中できる環境(時間的、金銭的)を・・・」にも積極的に耳を傾けようとしていません。優れた業績でノーベル賞を受賞した人々は、それまでの数十年間にわたる地道な研究の蓄積が元になっていることを、少しでも考えてみてほしいものです。総じて、日本の政界や経済界は、「すぐにカネを生み出す活動」にだけ目を向ける傾向が強く、将来世界に広がってゆく可能性がある研究などには着目しないように感じます。既に様々な統計にも現れているように、学問や技術の分野でも日本はいわゆる先進国の中でも低い水準に落ち込んでいます。このままでは近い将来人口減少に伴う活力の衰退もあって世界での存在感が今以上に薄れてしまうように思えてなりません。派手な活動にだけ目を向けず、長期的なビジョンに立って学問や教育に力を注ぐことが大切ですしっかりした基礎を造らずにやたら結果だけを求めるのでは、底の浅い小手先のものしか得られず長く役立つ大きな果実は絶対に得られません

「政治主導」の名の下に強化され過ぎた内閣府のあり方が、様々な弊害をもたらしているように感じます。今回の学術会議問題での6人の任命拒否もどうやら内閣府の杉田某によるものらしく、権限のない人間にこのようなことを許す内閣府の体質に大きな疑問が涌きます。前政権時の欠陥マスクの配布も側近の一声で決まったとか・・・。要するに、身辺にお友達や手なづけたお気に入りを集めて勝手放題をやらせるのが、この国のボスの体質なのかも知れません。能力的には彼らより遙かに優れていると思われる官僚集団に、有無を言わさぬ人事権を振りかざした脅迫をもって対するとは、何と思い上がった人種がこの国を支配しているのでしょう!

故中曽根氏の葬儀に関して文部科学省が国立大学や都道府県の教育委員会に弔意を示すよう通知を出しましたが、まともに考えれば随分と奇妙なことです。ましてこの合同葬に税金から1億円近く支出したとなると、だいぶ筋違いのような気がします。確かに中曽根氏はいくつかの立派な業績を残しましたがそれと弔意を示すことの「暗黙の強制」は全く別の問題であり、ここでもそれぞれの大学や教育委員会の対応を見て政権への忠誠度を計るのではないかと危惧せざるを得ません。公式には「裁量に任せる」と言いながらその裏では「対応の仕方で評価する」という狡猾なやり方は、これからも色々な場面で続くような気がします。「驕れる者久しい」この国の政界では、これからも次々に不思議な出来事が起こることでしょう。

聞くところによると、またぞろあの竹中平蔵が政権のブレーンとして登場したようです。彼は小泉政権の閣僚だった時に絶えず「高齢者の増加が高額の医療費や年金など社会保障費を押し上げて国の経済を圧迫し、現役世代や若年層に大きな負担をかけている」と当時の私たちを標的に攻撃55年体制下で繰り返されたその場凌ぎのばらまきや箱物行政など、未来への予見を欠いた選挙目当ての政治が本当の原因であることへの責任には全く言及しなかったのです。
当時は経済を支えるエースとしてもてはやされた団塊世代も、現在は彼の攻撃目標である「高齢者」の仲間入りをしている訳で、この先どんな無理難題が押しつけられるか油断できません。

ページトップへ


75 隠蔽政権のあとは極めつけの後手後手政権  (21.1.1) 

絶対多数をたのんで数々の無理無法を重ねてきた安倍政権、その首領が今回しぶしぶ両院の議院運営委員会で弁明を行いました。例の桜を見る会の前夜祭関係です。一流ホテルでの食事が参加者の払った5000円で済むなど到底考えられず、安倍晋三後援会側からの補助があったことは明白です。しかし、彼の過去の国会での答弁ではあくまでもそのことを認めず補填はないとの断言を繰り返してきたのです。黒川某を検察のトップに据えようと画策したのは、このことの真相がいつかバレるのを意識していたためでしょう。 森友関係や加計学園関係の疑惑も全く解明されないまま、真相は闇の中に埋もれています。司法の世界に生きる人々は無言の圧力に抗して真相解明を目指して立ち上がる勇気を見せて欲しいものですが、そこまで正義を通そうとする気配が見えないのは非常に残念です。

それにしても、
菅政権の新型コロナ対策のお粗末さは呆れるばかりです。週末に突如緊急事態宣言を出して教育機関や働く親たちを大混乱に陥れた安倍晋三もひどかったですが、現政権の未知のウィルスへの対処の仕方には日夜感染の危険にさらされている人々への配慮はほとんど感じられません「日本人特有の律儀さ」でコロナを抑えられるような印象をことさら強調して、まるで「大和魂」や「神風」でこの恐ろしいウィルスに打ち勝つことができるとでも考えているのではないかとさえ思わせてきました。人々に「日本人は特別な民族」と印象づけるとしたらまるで戦前のやり方です。法科出身が多いせいか、政治家には科学的知識に欠ける人物が少なくないようです。今回のように相手がウィルスであるにもかかわらず、折角”雇った”専門家が危機を訴えてもその切迫性を感じることができず、対策が後手後手になり感染の拡大が続いてお先真っ暗になってしまいます。首相の会見などでもコロナ禍がまるで人ごとででもあるように淡々とした話しぶりが多く、果たしてどの程度現状を把握しているのかさえ心許ない限りです。これでは、甘い現状認識のもとに軽々しい行動に走って市中感染を拡大させている一部の心ない人々に未曾有の危機にあることを実感させることはできません。心の奥底から絞り出すような真剣さに満ちたメルケル首相のドイツ国民への訴えと比べて、あまりにもお粗末で情けないです。本当に国民の命を守る気があるのなら、先ず政権の中枢を担う人々が危機感を共有し、党内の有力者などへの忖度を排して科学的事実に基づく対策を実行して欲しいものです。

春からずっと言われ続けてきたにもかかわらず
PCR検査の拡充には一向に熱意を示さず、発熱してから実際に検査を受けられるまでの時間的ロスの解消にも消極的なままです。つい最近亡くなった羽田議員もこの犠牲です。経済との両立を過度に求めてGo to Travel を強行して地方にウィルスを拡散しておきながら、「4000万人が移動しても感染者はごく僅かに過ぎない」と都合のいい説明を続けてきました。

言語道断なのは、このような深刻な事態にもかかわらず国会を延長せず閉会してしまったことです。最近になって全国的に増加傾向が際立ってきた感染者数、その影響を直接受けて崩壊寸前にまで至っている医療機関の苦悩を知りながら平然と休会してしまうとは、国民から委託された立場を全く弁えていないとしか思えません。特に、ウィルスにとって最も美味しい東京都などの大都市での感染者激増への対策の審議は一刻の猶予もないことで、直ちに臨時国会を開いて与野党の別なく政治的な思惑を一切排した真剣な審議のもとに最善の案を練りだして即実行が望まれます

更に、
国民には不要不急の外出を避けることや飲食の場でのあり方をお願いしながら、当然先頭に立って感染防止のための模範を示すべき国会議員や地方の有力者などが平然と大人数での会食、それも飲酒を含む会食を行っているのでは、それを真似る不心得者が出てくるのは当然です。たださえ新型コロナ感染症をトランプ同様ただの風邪のように思っている一部の人々は、度重なるリーダー(実際はミスリーダー)たちの行動を間違ったサインとして受け取って感染拡大につながる行動に走りがちでしょう。

尋常でない現在の状況の中で最も過酷な立場に置かれているのは医療関係者つまり医師と看護師ですが、感染者の増加に伴って勤務条件が日に日に厳しくなり、ほとんど休息さえ取れないことが度々報道されています。ところがそのように急増する負担とは逆に給与やボーナスは減らされたりカットされたりで、かろうじて支えているのは使命感だと言われています。物騒な「敵基地攻撃能力・・・」に巨額の予算をつぎ込む代わりに、目前の医療体制を立て直すために全力を注ぐことが政治家の使命でしょう。

一方、
ネットなどを悪用する医療関係者への心ない仕打ちが決して珍しくないようです。しかも、医療者本人だけでなくその家族、特に子どもにまで差別や中傷が加えられるとは、身勝手で相手の立場への理解もない愚かな人々がなんと増えたものかと暗澹たる気持ちになってしまいます。感染者に対する理不尽な態度も同じパターンです。新型コロナウィルスについての情報は毎日得られているので、それらを正しく理解していればこのような行為は起こらないはずです。物事を論理的に考えることが苦手な日本人の特質かも知れませんが、このような卑劣な行為はすぐにもやめるべきです。

ページトップへ


78 官邸の権力乱用がもたらす弊害   (21.3.2) 

この秋の総選挙までのつなぎ役として発足した現政権の総帥は、官房長官時代に感じられたある種の朴訥さとは裏腹に非常に強引な手法を用いて政官界を牛耳っているように感じます。何と言っても、政権発足の際の「政権の意向に従わない者は異動させる」という官僚組織に対する明らかな脅迫は、その影響の大きさを考えると決して軽く見ることはできません。これも、野党が逆立ちしても及ばない巨大過ぎる腐敗政党に守られていることによる自信(実際は「過信」)が言わせたことでしょう。政治主導とはこのように官僚を勝手気ままに扱うことではないはずです。

元を正せば、
安倍政権時代に始まった内閣府(官邸)への権力集中、特に官僚の人事権掌握がこのようなおよそ民主主義国家の政治にはそぐわない手法を可能にしてしまったことは明らかです。国民のために奉仕しようという熱意を胸に最難関の国家公務員試験を経て官僚を目指した人々が、実際の職場の実態があまりにも当初の予想と違い知識や技術の発揮どころか官邸の操り人形を強いられることになるのです。このような場合における自然の成り行きとして、理想に燃えたであろう初心を捨てて出世を目指すヒマワリ族以外は、事の理非には目をつむり黙って指示に従う道を選ぶか、真面目さゆえに理不尽さを許せず退職して他の道を選ぶかの選択を迫られることになってしまいます。事実このところ退職者が増加しつつあるとか…、さもありなんとしか言いようがありません。

菅氏のやり口はむしろ安倍晋三よりも過激だと言えます。安倍晋三の場合は、自らの口ではっきり言わず無言の圧力で相手による「忖度」を招くという狡猾な姿勢だったと言えるでしょう。それに比べて菅氏は「真正面から服従を要求する」高姿勢であり、安倍晋三よりも一段階上に見えます。官僚ならずとも、家族との別居や余分な出費をもたらす理由なき配置換えには誰しも困惑するでしょう。そのような私生活にとっての重大事態が“菅のひと声”で生ずる可能性が高いとしたら、よほど骨のある人物でない限り抵抗を諦めて(少なくとも表面は)従順にならざるを得なくなってしまいます。議論や説得の過程を無視して脅しを武器に自らの意向に従わせるのでは、「民主政治」などと大きな顔をできるはずはありません。気に入らなければ建設的な提言も受け入れようとしない現政権は、極端な表現をすれば「ブレーキの脱落した暴走機関車」のようなものです。

このような状況下に置かれて、蓄積されたデータを元に
一部の政治家より遙かに的確な判断ができる官僚たちが、働き方改革にも逆行する「不夜城霞ヶ関」で心身をすり減らして消えてゆくとしたら、これほど私たち国民にとって不利益なことはありません。なぜなら、政治家の求めに応じて彼らが周到な検討を経て立案する様々な政策の中身から、「官邸にとって都合のよくないもの」が国民の知り得ない段階で全て除かれてしまうからです。

最近ニュースを賑わしてきた
総務省関係の事件も、相手が菅氏の長男が要職を務めている放送関係会社であることが根本原因であり、会社側としては何らかの利益を得る目的で接待をしたことは間違いないでしょう。菅氏本人がどう言い繕おうと、現職総理の長男の存在が大きな意味を持っていたことは誰もが感じるに違いありません。ましてや、一般家庭の経済状況から見ればまるで別世界の一食7万円の料理など、コロナ禍で苦しむ多くの人々はどのように感じるでしょうか?アキタフーズの接待に応じた農水省関係の幹部も自分たちが何をしているのかとの認識が全くなかったようで、ここにも政治が誰の方を向いているかが如実に表れています。

国民に常に正確な情報を伝えるのが新聞や放送に与えられた最も重要な使命であるにもかかわらず、自民党政権は陰湿な策を弄して自らへの批判を抑えようと画策することが多いように思います。高市氏が総務相の頃は電波の停止をちらつかせたこともありました。最近話題になったNHKのニュース番組キャスターの配置替えも、菅氏や二階氏の不興を買ったことが原因らしいとされています。もし事実ならとんでもないことで、本来政治を監視するのが役目の報道機関であるのにも関わらず政権に批判的な論調には報復するという反民主主義的な行為です。

ページトップへ


9 私が日頃から感じている様々な疑問 その1   (21.3.13) 

私は世の多くの人々とは色々な点で価値観がかなり違う人間
なので、これから述べることはそれを前提として読んで欲しいと思います。

2年ほど前にあった改元の際の世を挙げての大騒ぎは、私にとっては何とも奇妙に感じられることでした。森友学園での戦時中を思わせるような教育形態を賛美していた安倍晋三が万葉集の文言から採用したことを声高に誇っていましたが、そもそも天皇家の代替わりの際に行われる改元をなぜ日本人はここまでもてはやすのか私には理解できないのです。明治憲法下ならいざ知らず現在ではこの国の主権者は国民であり、必ずしも実用的とは言えない天皇家の暦にここまで執着する必要は全くないと思うのです。昭和の時代に国が起こした戦争で人生をねじ曲げられた私はある思いから元号にはずっと強い反発を感じていて、専ら世界暦(いわゆる西暦)を用いています。しかし、憲法を改正して天皇主権に戻したがっているであろう日本会議などの勢力が中核を成す自民党は、世論調査でも多くの国民が望んでいる世界暦への統一には頑として応じません。そのため、公文書はいまだに得体の知れない元号表記を守らされ、私たちも行政関係の書類など様々な機会にその使用を強制され煩雑この上ない有様です。以前の出来事を元号で「○○・・年」などと言われても、それがいつ頃のことかピンとこないのは私だけではないと思います。カレンダーをはじめとして日常使うものは全てできるだけ元号と干支の載っているものを排除する私のような人間は昔風に表現すれば許しがたい「非国民」でしょうが、本人はそれで一向に構わないのです。

この国の政治は国民が選挙という手段で選んだ国会議員に委託して行われる訳で、政治全般のの司令塔である総理大臣の選出は国会議員に委ねられています。従って、実際には政党内の力関係の影響が大きく関わるので、必ずしも国民が望む人物が総理大臣になるとは限りません。更に、現在採用されている小選挙区制はそのからくりから各政党の当選者数が支持者数に比例せずとんでもなくかけ離れた人数比になるため、尚更このような傾向になりやすいのです。それでもやはり国民にとっては選挙は唯一政治に関わることができる機会であり、選挙のときだけ選挙民の目先にニンジンをぶら下げてくる候補者の甘いささやきに釣られて投票先を決めるのは、折角の選挙権をドブに捨てるようなものです。政治は自分には無関係と棄権する人々も決して少なくない昨今ですが、政治のもたらす結果に対面してから文句を言っても「後の祭り」なのに勿体ない限りです。

選挙で当選すると必ず行われるのは祝賀の集まりでの「バンザイ!」ですが、彼らは一体何を祝っているのでしょうか?「これで○年間は安泰だ」という気持ちだとしたら安易に過ぎます。当選は「政治活動の出発点」であって、要はどんな政治活動をするかにあるのです。最近の状況を見ていると、本当に政治家らしい人物が少なくなりました。

菅首相の長男が所属する会社との関係が疑われているだけでなく、その後も
続々と総務省関係者による民間会社との疑わしい会合などが話題になっています。とうとう2人の総務大臣経験者までやり玉に挙がましたが、彼女らは口を揃えていかがわしい関係を否定しています。しかし、最近連続して起こった自民党関係の閣僚などの不祥事でを振り返れば、そのような言い訳を全面的に信ずることなどできるはずがありません。しかし、政治家も(官邸の奴隷となってしまった官僚も)いざ不祥事の当事者となったときなぜ正直に非を認めようとしないのでしょうか?どんなに否定してもやがては真相が暴露されるか、あるいは隠蔽に成功してもずっと疑惑が消えないかがはっきりしているのに、厚顔無恥もここまでくると呆れを通り越して苦笑いするしかないようです。

自然環境もテクノロジーも刻々変化していく現在では
「国家百年の大計」は無理としても、せめて近未来くらいは意識して行われるのが本来あるべき政治の姿だと思います。しかし現状は決してそうではなく、この国の政治屋(政治を自らに利益をもたらす方向に利用する輩)たちは、国民や国の将来など意に介さず貴重な財源の無駄遣いを続けてきました。例えば現在緊急を要する医療関係や、将来のための基礎造りが必須な研究などの分野には資金を出し惜しむという悲しい現状なのです。
 
 
ページトップへ



 67 データが示す世界に冠たる車過密社会日本の特異性  (19.6.14) (21.1.31 追記)

最近の新聞の投書欄に掲載された車の効用についてのアンケートタイプの感想を見ても、日本人の車に対する執着の度合いは並大抵ではないようです。必要な時に様々な要求にすぐ応えることのできるのが車であり、その気持ちは私にもよく理解できます。明治維新後の数十年間で先進国もどきに成長したとはいえ、実際はまだ物心両面で途上国並みの部分が色濃く残っているのがこの国だと思います。従って、太平洋戦争の敗戦を契機に世界一豊かなアメリカ人のライフスタイルへの憧れが異常に強まったのも当然で、その一つが車を所有することへの強い欲求でした。

ここでは、そのような
日本人の車社会崇拝傾向が決して世界に共通のものではないことを示すため、客観的なデータを並べて分析してみました。
 
自動車事故による死亡者数の推移と自動車に関する国ごとのデータ 

鉄道や航空機など他の交通機関に比べたとき桁違いに多い自動車事故での死者数
が1970年度の16765人をピークにほぼ減り続け、1996年度に初めて10000人を割ったのち今世紀に入ってからも年々減少の一途を辿って、2019年度には過去最少の3215人となりました。しかしそれでも見逃してはならないのは、これだけの人命が失われるだけでなく死者一人一人に関わる家族や知人など周辺の人々の生活環境を、物理的にも精神的にも激変させてしまうという重い事実を軽視してはならないということです。

2017年に起きた
東名高速道路でのあおり運転事故に関しては、子どもたちの目前で両親が命を奪われるという悲劇的な状況に圧倒的多数の人々の怒りが爆発し、これを契機に事故原因と適用する罪の軽重の関係が議論となって、以後の同種犯罪に対する裁判での対応にも大きな影響が及ぶようになりました。

ここでは、このような
自動車事故の起こりやすさ(起こりにくさ)の原因の一端になるのではないかと思われるデータを、欧米各国との比較の形で示してみました。可能な限り新しいデータを用いましたが、部分的にはやや古いものや概数のものも含まれています。

表中に示されている
可住地」とは「居住が可能な地」、つまり人間が(特別な装置や装備を必要とせず)普通の状態で住むことのできる土地を言います。
 
   面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 日


 本
 
  377972
  114622

  (30.3%
 
 12748

   337.3
  1112.2
 
   77750520

   61403630
   16346890
 
 60.99

 48.17
 12.82
 
 205.7

 162.5
  43.2
 
 678.3

   535.7
   142.6
 
 ア
 メ
 リ
 カ
 
 9525067
 6103372

  (64.1%
  
 32446

    34.1
    53.2
 
  270566332

  123552650
  14701368
 
 83.39

 38.08
 45.31
 
  28.4

  13.0
  15.4
    
  44.3

    20.2
    24.1
 
 ド
 イ
 ツ
 
  357121
  237810

  (66.6%
 
  8211

   229.9
   345.3
 
   49286000

   45804000
    3482000
 
 60.02

 55.78
  4.24
 
 138.0

 128.3
   9.8
 
 207.2

   192.6
    14.6
 
 
 面積(km2
  ・総面積
  ・
可住地の面積
  ・( )内は
可住地
    の総面積比

  
 人口(万人)
 人口密度
  (人/km2

  ・全国
  ・
可住地  
 車の保有台数

 
 人口100人
   当たりの
   保有台数
 面積1km
   
当たりの
   保有台数
 
 可住地1km 
   当たりの
   保有台数
 
 黒字…総保有台数  赤字…うち乗用車の台数   青字…うちトラック・バスの台数 
 フ
 ラ
 ン
 ス 
  551500
  387640

  (70.3%
 
  6498

   117.8
   167.6
 
   39118000

   32390000
    6728000
 
 60.20

 49.85
 10.35
 
  70.9

  58.7
  12.2
 
 101.0

    83.6
    17.4
 
 イ
 タ
 リ
 ア 
  301336
  201870

  (67.0%
 
  5936

   197.0
   294.1
  
   42699954

   37876138
    4823816
 
 71.93

 63.81
  8.13
 
 141.7

 125.7
  16.0
 
 211.5

   187.6
    23.9
 
 ス
 イ
 ス 
   41277
   27554

  (66.8%
 
   848

   205.4
   307.8
 
    4999271

    4524029
     475242
 
 58.95

 53.35
  5.60
 
 121.1

 109.6
  11.5
 
 181.4

   164.2
    17.2
 
 
 各項目ごとの、日本と他の5カ国とのデータの比較
 
  T 日本と他の5ヶ国との数値の比較 

    @ 
国土の総面積に対する可住地面積の割合が、日本は他の5ヶ国の半分以下
    A 
国土全体の人口密度は、アメリカの10倍、フランスの3倍、他の3ヶ国のおよそ1.5倍
    B 
可住地の人口密度日本が群を抜いて高くアメリカの20倍、他の4ヶ国の3〜7倍
    C 
人口100人当たりの車保有台数は、ドイツ、フランス、スイスと同程度でイタリアよりやや少なく、アメリカの70%
    D 
国土面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜いて高くアメリカの7倍、フランスの3倍、ドイツ、イタリア、スイスのおよそ1.5倍
    E 
可住地面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜きドイツ、イタリア、スイスの3倍以上、フランスの7倍近く、アメリカの15倍

  U Tの結果から分かる日本の自動車事情の特殊性

    @ 広大な国土を持つアメリカは別格として、
日本とほぼ似た面積を持つドイツやイタリアに比べて可住地の人口密度が3倍以上という事
      実
は、日常生活の範囲で周囲に人の存在を感じる度合いが3倍以上ということになります。しかも、実際は人口の偏在が進行している
      現在では
大都市周辺での混雑が尋常ではないことを意味しています。
    A 人口100人当たりの車保有台数にはさほどの差はないものの、早くから車中心社会であったアメリカがやや多くなっているのは至極当然
       のことと言えます。
    B 
問題は単位面積当たりの車保有台数です。国土全体で見ても、自動車産業の先輩であるドイツやイタリア、フランスを遙かに凌ぐ数値
       を示しています。
最も実態をよく表しているのは表の印「可住地1km当たりの車保有台数」であり、その異常な多さが日本の自動
      車事情の特殊性を如実に表す決定的なデータ
です。可住地、つまり「人が生活の場として活動している地」に存在す車の台数が、
      メリカの15倍、それ以外の国々の3〜7倍もある
ということなのです。ごく単純に計算すれば、「38m四方の土地に1台の割合で車が存
      在している」ということ
なのです。しかもこれは住宅などの建物も含めての数値なので、実際にはもっと狭い土地を車一台が占拠していること
       になります。
都市も地方もひっくるめてこの数値になるのは驚くべきことだと言えると思います。 

  V 交通事故の多発を招く諸々のこと

    @ 
日本で交通事故の多発を招いていると思われる要因の第一は、何と言っても前項UのBに示されたように「人が生活の場としている
      土地=可住地」当たりの車の台数が際立って多いこと
に尽きます。国土が広大なアメリカは別として、ヨーロッパ各国に比べて生活圏
       の車の台数が3〜7倍も多いのでは、自動車事故が起こらない方がむしろ不思議と言っても過言ではない
でしょう。
    A 高速道路などの自動車専用道路を除けば、
大都市以外の地域での一般道路は概して道幅が狭く、歩道の設置されている区間は限
       られ
ています。また、歩道があっても歩行者の安全を確保するためのガードレールがなかったり、電柱などの障害物で安全な歩行が難し
       い箇所も少なくありません。更に、車道は平坦でも歩道は工事の後始末さえ不十分で凸凹だらけというのが実態
です。結局のところ、
      本では人命の保護よりも自動車交通の円滑さを優先させるのが半ば常識とされている
とさえ言えます。このことは、自動車事故での死
      者のうち歩行者の占める割合が日本は36%であるのに対し、アメリカやヨーロッパ各国では15%程度であることにも現れて
います。
        ※ 以前から問題とされている(特に若者による)自転車事故の増加に関しては「自転車も車両(軽車両)だから車道を走るべきだ」
          とよく言われます。これを錦の御旗のようにのたまう
国交省の官僚たちは実際に路側帯を自転車で走ったことがあるのでしょうか?
          
彼らは恐らく東京などの大都市のきちんと整備された車道しか認識していないのでしょう。
    B 
交通ルール遵守の意識が希薄な運転者の増加も目立っています。交通法規に盛られているのは他の運転者や歩行者のために最低
       守るべきものですが、それすら無視して事故を起こしたり誘発したりする例があとを絶ちません
。東名事故のような悪質なものは別としても、
      
日常的に行われているルール違反の中にはいくつか無視できないものもあります。特に目立つのは次の二つです。
        ○ 
適切な車間距離の確保がほとんどされていません。あおり運転のような犯罪的な行為は論外ですが、一般の運転者でもこの点
           についてはあまり深く意識していない
ように思います。車同士の事故が起こるたびに必ずと言ってよいほど付随する玉突き衝突の
          根本原因がこの点にあることは明らか
です。制動距離、つまり「ブレーキを踏んでから停まるまでの距離」は(速度)に比例する
          で時速100kmの場合の制動距離は時速50kmの場合の制動距離の2倍ではなく2の4倍になるのです。
車間距離を適切に取
          っていれば事故も起きずスムーズに走れる
のに、先を焦って車間距離を詰めた結果事故に巻き込まれて命の危険や時間のロス
          を招くのは、本当にバカげているとしか言いようがありません。
        ○ 
信号機のない交差点では「右大回り左小回り」が原則であるのに、それを知らない運転者が多過ぎます。
           車には必ずある内輪差を考えれば、右折レーンのない交差点では右折のときはできるだけ大回り、左折のときはできるだけ小回りを
           心がけるのが事故の発生を防ぐための方策です。しかし、教習所で教えられていないのかこのことを知らない運転者が非常に多
           いように感じます。見通しの利かない交差点での右左折で起こる事故の多くはこのことが原因であることは間違いないでしょう。
        ○ 
何よりも見過ごせないのがドライバーに歩行者を優先させる意識が非常に薄いことです。特に、信号機のない横断歩道を歩
          行者が渡ろうとしても、停まってくれる車は(私の日常の経験では)1/10程度
に過ぎません。最近その実態が報道でも取り上げ
           られていますが、長野県の68%は立派としても多くは10〜20%程度に過ぎません。
このことがマナーではなくルールであり違反す
          れば処罰を受ける行為と認識されるきっかけになればと思います。端的に言えば、
車の普及で年々増え続けてきた日本のドライバ
         ーの心には、車優先の意識が根強く植え付けられてきたように思えてならない
のです。
            ※ ヨーロッパを歩いた経験のある人なら分かると思いますが、このような光景はほとんど見られません。観光大国のスイスなど
              は、横断歩道に人影が見えるだけで車は遙か手前から」減速し、人が渡りきるまでは停車して待っています。 
    C 
このほかにも事故を誘発しがちな事柄がいくつか考えられます。例えば、ながら運転に見られるような「車は走る凶器」であることを忘れた
       緊張感を欠く運転
も決して少なくありません。停車中の他の車を追い越す際の注意不足も含めて、常に周りの状況に合わせた運転の仕
       方に気を配ることの大切さを忘れた運転も目立ち
ます。

   W ヨーロッパ諸国と日本との交通事情の違い

     @ 敗戦後、
日本人の多くはアメリカ人の豊かな生活に憧れてひたすらその後を追ってきました。白黒TV、洗濯機、冷蔵庫に始まった「三
       種の神器」も、高度成長期はカラーTV、クーラー、自家用車の3Cに変わったのです。
人間が豊かさを求めるのはごく自然な姿には違
       いありません
問題は「日本とアメリカの極めて大きな国情の違い」です。上の表からもはっきり分かるように、国土の広さや人口密度、と
      りわけ可住地の状況が極端に違い
ます。国土全体の人口密度はアメリカの10倍、可住地に限れば20倍以上です。そこに乗用車に限
      ってもアメリカの半分の車が走っている事実を見れば、それがどれほど異常なことかは誰にも分かる
と思います。可住地に存在する乗用
      車の密度はアメリカと比較すれば何と25倍以上
なのです。その結果として、どんなに狭い路地にも車が入り込んでくる有様は、とても正
      常とは思えません

    A 
ヨーロッパ諸国と比較してみると、日本の特殊性が更に際だって見えてきます。国土面積が似通ったドイツやイタリアでも、可住地
       の車密度は日本のほぼ1/3であり、やや広いフランスの場合は日本の1/6以下
です
車密度の高さが事故の可能性を大きくする
      
ことが十分予測できる以上、ここでも日本の車密度、言い換えれば「感覚的な車の多さ」の異常さが明らかになってきます。
    B 
もう一つ注目したいのは車保有台数の内訳です。国土が非常に広いアメリカでは乗用車よりもトラックやバスの台数が上回っています
       が
ヨーロッパ諸国を見るとトラックやバスの台数は乗用車に比べて桁違いに少なくなっています。理由として考えられるのは「貨物輸送
       が環境に優しい鉄道に大きく依存している」
ことです。
     C 
ヨーロッパではたいていの都市には路面電車が走っていて、多くの市民が日常的に利用しています。しかも、多くは乗り降りしやすい低
      床車の長編成(4〜6両)で、市内くまなく路線が張り巡らされているため非常に便利
です。日本でも広島や富山など地方都市では路 
      面電車の整備が進んでいますが、大都市では自動車交通を優先させる方針から路面電車はほとんど見られなくなってしまいました。 
       
ヨーロッパではこのように路面電車が生活の便利な足にもなっているため、車に頼り切る考え方が存在しないのです。
     D Cでも分かるように、
日本とヨーロッパ諸国では交通というものに対する考え方が正反対なのです。日本では効率が最優先であり何よ
      りも速いことが重視され
ます。しかし、ヨーロッパでは効率をある程度下げても環境への負荷の低減を優先させる考え方が大切にされ
      ている
のです。私も時折見かけましたが、ヨーロッパの観光地でほとんどの人々がゆったりと構えている中でセカセカ動き回っているのは
      たいていが日本人でした。日頃から「速いことが一番」と焦る習慣が抜けきれず、特に急ぐ必要がない場面でもそうしてしまうのでしょう。

  X 高齢者が起こす相次ぐ事故の背景にあるもの

    @ 最近は
高齢者による事故の話題が世間を賑わすことが多くなりました。原因のほとんどはアクセルとブレーキの踏み間違いですが、メー
      カーは構造上の問題があるとは認識せず抜本的な対策を施そうとはしません。加齢による能力の低下が踏み間違いの唯一の原因であ
      るとの立場です。 
    A しかし、
根本的にはWで述べたようにこの国の異常極まる車密度の高さが真の原因であり、残念ながら今となってはこれを改善するのは
      事実上不可能
と言わざるを得ません。その根底となっているのは、数十年間にわたる国の交通政策の間違いとしか思えません。
    B このように
人々が車というものに過度に依存するようになった原因は色々あるでしょうが、一つには輸出による外貨獲得の主役となった自
      動車産業を国や経済界が手厚く保護し過ぎたことにあると思います。そこには、
近い将来国内の交通事情がどうなるかへの配慮や疑 
      問が介入する余地はなく、GDPが増えることしか国や経済界の関係者の脳裏にはなかった
のではと思います。
    C 更に、大地震などの甚大災害の際には国の存亡にも関わりかねない東京一極集中をやみくもに進めた結果、地方では中心都市です
      ら商店街のシャッター通り化が進み、大型店が進出してもほとんどが車でないと行けない郊外になりがちで、
高齢者でも危険と知りつつ
      運転せざるを得ない状況
が生じています。車なしでも買い物やその他の日常活動が可能なコンパクトシティが話題になったのはつい最近
      ですが、時既に遅しというのが実感です。要するに、
ここまで車が人々の日常生活に密着してしまっては手の打ちようがないとしか言いよ
      うがありません。
    D 最も目立つのは、
この国の政治家には公共交通を守ろうという姿勢がほとんどなく、ヨーロッパ諸国のような公共交通優先の考え方が
      全く欠落している
ことです。地方の鉄道会社やバス会社は車の増加に伴って経営が苦しくなり、路線の縮小や減便、やがては廃止へ
      と進むことが多くなっています。そのため、
高齢者は車の運転をやめたくてもやめられず、いつ遭遇するかも知れない事故への恐怖ととも
      に生きている
のです。
       
 私の決断、車との(世の常識では恐らくあまりにも早過ぎる)決別

私は70歳の誕生日を期して車の運転から完全に“足を洗い”ました。40歳くらいまではまだ幼かった子どもを別に暮らしていた母に日中だけ預けなければならず、また、その後住むようになった新興住宅地には駅までの交通手段がなかったため、やむを得ず車を使用していたのです。しかし、数年後に住宅地から駅までの路線バスが開通して、通勤には車を使う必要がなくなりました。バスの本数は1時間に朝夕は4,5本、日中は2,3本ですが、これだけあれば十分です。

元々好きではなかった車の運転をできるだけ早くやめたいと思っていた私ですが、この頃になるとマナー以前のルールさえ無視するドライバーが少しずつ目立つようになり、このままではいつか大事故に巻き込まれるのではないかという恐怖心が高まってきました。普段の通勤に車が欠かせない状態からは解放されましたが、仕事の関係から時折は不便な地域への出張に使わざるを得ないこともあって、まだ車は残してありました。

しかし、退職してからは精々バスでは行けないスーパーへの買い物に出掛けるくらいでしか車を使う機会はなくなり、
区切りよく70歳の誕生日で車と絶縁することに決めました。まだ車自体はしっかりしていて車検も済ませたばかりでしたが、そんなことは二の次の問題で一日も早く事故の加害者や被害者になる危険から脱出したくなっのです。こうして車から離れたときの爽快な気分は表現のしようもないくらいでした。多くの人々のように鼻歌気分で車の運転を楽しめず始終緊張状態を強いられていただけに、それから解放された喜びは運転好きの人々には到底理解できない心の動きに違いありません。私にとっての車は、いつ自分自身、ひいては家族をもどん底に突き落とすかも知れない怖ろしい厄介者だったのです。

車から離れて以後は、91歳になった今までずっと買い物などは自転車と徒歩で済ませています。若い頃からずっと人混みが大の苦手だったため、通勤時も含めてエレベーターやエスカレーターは余程のことがない限り使ったことがなく、恐らくそのためもあって足腰は人並み以上に強く、最近でも低山や渓谷などのハイキングを楽しんできました。コロナ禍の昨年はそれができず本当に残念でした。

確かに、
国の交通行政の無策から地方のみならず都市近郊でも公共交通の衰退が目立つようになり、人によってはどうしても車に頼らざるを得ない事情があるようです。しかし、少しでも可能性があるのなら、高齢者は一日も早く車の運転に決別することが自分自身にも家族にも安心をもたらすと思います。それ以上に、身体の老化を遅らせるためにもその方が良いことは明らかです。長〜くなった老後を自分の足で送れるようにするためにも

新技術への疑問と危惧 

だいぶ前から
自動運転がもてはやされ一部では試運転もされていますが、これには多少懐疑的にならざるを得ません。詳しく調べた訳ではないのでごく素朴な疑問だけ述べて見ます。完全な自動運転のためには車の現在位置を正確に認識する技術が不可欠ですが、その場合は恐らくGPS衛星による機能が用いられるのでしょう。国産のGPS衛星の性能は非常に優れていると聞きますが、果たしてcm単位までの精度があるのでしょうか?都会地だけでなく田舎の農道や山岳地帯などの曲がりくねった道でも安全に走れるほどの機能があるのでしょうか?それに、もし悪意を持った相手(人物 or 組織、国家)にGPS機能を乱されたら致命的な結果を招くというのは杞憂でしょうか?ましてや、GPS衛星を破壊されたら途端に道路交通は完全に麻痺してしまうでしょうが、このような場合の対処方法はあるのでしょうか?物事は常に最悪の事態を予想しておくのが定石です。

これはまだまだ先だとは思いますが、最近話題になってきた
「空飛ぶ車」が実現したらこれはもう大変な危険を招きます。現在でも飛行機からの落下物が時々あって問題になりますが、その比ではなくなることは確かです。恐らく飛ぶコースや高度、スピード、時間帯などの規制は設けられるでしょうが、必ず意図的に無視する輩が現れるので人々は安心して眠ることさえできなくなります。いわば「三次元の恐怖」が出現する訳ですが、私の場合その頃には消えているでしょうからセーフということになります。

でも、こうして
人間が「より便利に、より楽に」を追求し続けていったら何がもたらされるのでしょうか?決してプラスだけではないと思うのですが・・・。
 
ページトップへ


 メールコーナー
 サイト全般、独り言の内容等へのご質問、ご意見、その他の連絡事項等は、下記のアドレス宛にメールをしてください。ご面倒でしょうが、スパムメール防止のためアドレスを書き換えてからお願いします。

                nmktto1206(この部分に@)outlook.jp
ページトップへ